プルシェンコ現役復帰 | フィギュアスケート研究本

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プルシェンコ、現役復帰「平昌五輪目指す」

 フィギュアスケートの2006年トリノ五輪男子金メダリスト、エフゲニー・プルシェンコ(32)=ロシア=が17日、18年平昌五輪を目指して「現役に復帰し競技を続ける」と表明した。タス通信が伝えた。

 来季の世界選手権や欧州選手権出場を当面の目標にするという。ロシア通信によると20日にトレーニングを再開する。

 プルシェンコは14年のソチ五輪で団体金メダルに貢献したが、個人戦のショートプログラムを腰の故障で棄権し、引退を表明。その後は現役続行をにおわせる発言に加え手術も受けるなど、復帰への含みを持たせていた。(共同)


公式練習で調整する羽生結弦を見詰めるプルシェンコ氏=3月24日、上海(共同)

http://number.bunshun.jp/articles/-/823213

プルシェンコの現役復帰を徹底検証!
フィギュアの偉大なる“皇帝”の足跡。


田村明子 = 文
text by Akiko Tamura
photograph by Akiko Tamura

2015/04/27 10:40 Number Web

 代々木体育館で開催された国別対抗戦の最終日の4月19日、キャシー・リードが引退を宣言した。弟のクリス・リードと組んで全日本アイスダンスのタイトルを7回手にしてきたが、およそ10年に渡る競技生活に終止符を打った。

 今シーズンは、10月に長い間にわたって日本の男子を牽引してきた高橋大輔が引退を表明。そして12月には町田樹が全日本選手権終了後、電撃的な引退宣言をして、大きなニュースにもなった。

 どれほどの名選手にも、いつか競技生活を終える日は来る。

 そうわかってはいても、多くの人々に感動を与えてくれた選手たちが現役の舞台から姿を消すたびに、やはり一抹の寂しさを感じないわけにはいかない。

「来シーズンはフルで競う」とプルシェンコ。

 だがそんな中で、常識を覆してくれる超人が1人いた。2006年五輪チャンピオン、32歳のエフゲニー・プルシェンコだ。4月17日、ロシアのタス通信社の記者に現役復帰の意向をもらしたのだという。

「来季はフルシーズンで戦う。最終目的は、2018年五輪に出場すること」

 そうコメントしたプルシェンコは、昨年と同じくバルセロナで開催されることになっているGPファイナルにも出場したい、ともらしているという。ということは、当然GPシリーズからフルシーズン試合にでるという意味だろう。それが実現すれば、2003-04年シーズン以来、11年ぶりのことになる。

まだ14歳だった……北米デビュー戦。

 もちろん皇帝プルシェンコにも、シニアデビュー当時のあどけない時代はあった。

 初めてプルシェンコを生で見たのは、1997年10月デトロイトで開催されたスケートアメリカである。小さな体にキラキラ光る衣装をまとい、存在感のある14歳だった。

 先を急ぐことなく体を大きく使って、国際ジャッジたちを前に臆する様子もない。演技用の笑顔を浮かべるでもなく、「どうだ」と言いたげな、不敵なまでに堂々とした滑りだった。

「あれが噂のプルシェンコか」

「あれが噂のプルシェンコか」

 そんな声が、プレスルームで漏れ聞こえていた。前年、史上最年少で世界ジュニアタイトルを手にしたこの天才少年のことは、当時のスケート関係者の間で話題になっていた。

 プルシェンコはフリーでは4回転でストンと尻餅をついた。それでも大きな3アクセルや当時の男子では見たこともなかったビールマンスピンなど、強烈な印象を観客たちに植え付けた。

 毎年才能あるジュニアがシニアに上がってくるけれど、このあどけない少年は並みの新人ではない。誰の目にもそれは明らかだった。

 この北米デビューの大会で、14歳と11カ月だったプルシェンコは2位。今から実に18年前。羽生結弦が2歳だったころのことだ。

初めて英語で話した記者会見でのエピソード。

 2000-01年のシーズン、プルシェンコは出場した全ての試合で優勝し、バンクーバー世界選手権で、ついに世界タイトルを手に入れた。

 今でも忘れられないのは、この大会でプルシェンコが初めてロシア語の通訳を介さずに自ら英語で話したことである。

「(4位に終わった)昨年の世界選手権はプレッシャーに負けた。だから今シーズンは、何があっても自分の滑りができるようにしようと思って努力をしてきました」

 ブロークンながらも、言いたいことがしっかり伝わる英語だった。自分は世界チャンピオンなのだから、世界のメディアを相手に話さなくては。そういう彼の気概が伝わってきて、この18歳の若者に真の王者の素質を感じ取った。

度重なる怪我との戦いの、始まり。

 ソルトレイクシティ五輪では最大のライバルだったアレクセイ・ヤグディン(ロシア)に金メダルを譲ったが、翌年彼が競技を引退すると、プルシェンコの独走状態が始まった。彼にとってもっとも手ごわい敵は、負傷だった。

 2003年には膝の半月板を損傷し、この傷はその後何度もぶり返してプルシェンコを苦しめてきた。2005年モスクワ世界選手権では、初の自国開催の世界選手権だったのに、SPの後に股関節の負傷で棄権。氷の上に出てきたプルシェンコの異様に青ざめた顔は、この9年後、ソチ五輪で再び見ることになる。

 2006年、トリノでついに念願の五輪金メダルを手に入れたときも、満身創痍の状態だった。無事にフリーを滑り終えたときは、心の底からほっとした表情を見せた。

 これで円満に競技引退。

 本人を含めて、誰もがそう思ったことだろう。

五輪連覇という目標と、一度目の競技復帰。

 トリノ五輪後アイスショーに出演し、ロシアでは政界にも進出していたプルシェンコが、バンクーバー五輪を目指して復帰するという噂を聞いたときは、私自身も含めて誰もが話半分に受け止めた。さすがの彼も数年で体重も増え、ショーで跳ぶジャンプも難易度ががっくりと落ちてきていた。

 だが3年ぶりに戻ってきた2009年10月のロステレコム杯で、プルシェンコはあっさりと優勝した。体重もしぼり、4回転も3アクセルもみごとに戻してきていた。このとき2位だった小塚崇彦は、こう感想を述べている。

「現れたとたんに、本当の五輪チャンピオンが氷上にいると思いました」

一度も4回転を跳ばない選手に負け、二連覇ならず。

 復帰を決意したのは、やり手のプロデューサーである妻のヤナ・ルドコフスカヤに説得されたのだという。プルシェンコは2010年1月のタリン欧州選手権で優勝後、私にこう語った。

「妻に、あなたなら五輪を二連覇できる、と言われたとき、最初はとても無理だと思いました。トレーニングを開始して、朝起きると体が全く動かない日もあった。ベッドから起き上がるのに30分もかかったこともあります」

 それほどの思いをして二連覇を目指したバンクーバー五輪だったが、27歳のプルシェンコは僅差で銀メダルに終わった。SPでもフリーでも4回転を成功させたのに、一度も4回転に挑まなかったエヴァン・ライサチェックに負けたことは、本人も納得がいかなかったようだ。

「昔の競技仲間が懐かしい。ウルマノフ、ストイコ、アレクセイ(ヤグディン)、キャンデロロなど。みんなそれぞれ個性豊かで、本物の男だったという気がする。今は変わってしまいました。フィギュアスケートも、人間も」

 二連覇を逃した後、プルシェンコは単独取材でこう口にした。昔の競技仲間たちは、コーチになったり、コメンテーターになったり、もちろん現役は誰も残っていなかった。

4個目の五輪メダルは、ソチ五輪の団体戦金メダルに。

 2014年のソチ五輪に再びプルシェンコが戻ってくる、と宣言した当時、「今度こそいくらなんでも無理では」という声もあった。

 2013年1月末、つぶれた腰椎の椎間板を人工物に換えるという大手術を受け、リハビリに半年かけていた。だがバンクーバー五輪の彼を思うと、あの精神力ならきっとやるだろう、という確信があった。

 プルシェンコはロシアの男子代表に選ばれ、ソチの団体戦ではSPで2位、フリーで1位になりロシアを金メダルへと導いた。さすがにジャンプ以外は内容の薄いプログラムではあったものの、何度も手術を受けた31歳の体で、まだ4回転は健在だった。4度目の五輪で、4個目の五輪メダルを手にした。

「ロシアで五輪に出場することは、私の夢でした」

 団体戦のSP後の会見で、そう口にしたプルシェンコ。だが彼も生身の人間だった。個人戦のSPではウォームアップに出てきたが、ずっと痛そうに顔をゆがめながら腰に手をあてていた。何度かアクセルを試みた後、レフェリーのところに行くと、棄権を宣言した。

そして、再手術と復帰。

 予め計画的に棄権したのだ、と批判する声もあった。だがエージェントによると、団体戦のフリーの夜は2時までかかってテーピングを行い、翌日目が覚めると体が全く動かせない状態になっていた。その時すでに、代理選手を派遣するために個人戦を辞退する制限時間は過ぎていたのだという。

「体の感覚がなくなっていました。こんなふうにキャリアを終えたくないという気持ちはあります。でもきっと神様が、エフゲニー、もう十分だ、と教えてくれたのだと思います」とコメントを出した。

 プルシェンコは担当外科医に会うために急遽イスラエルに飛ぶと、腰に入れていた人工椎間板を固定していたボルトの1本が破損しているという、非常に危険な状態であったことがわかった。

 ソチ五輪直後にいったん「これで競技は引退」と宣言したが、その後撤回。2014年3月の再手術後、「平昌五輪の可能性は捨てていない」と口にした。平昌五輪に本当に出場できたなら、彼は35歳になっている。神様が「もう十分だ」と言ったとしても諦めないのはプルシェンコならではである。

 今年の1月に東京で開催された「メダル・ウィナーズ・オープン」では、3アクセルを2回跳んで優勝した。常人なら生命にも関わるような大手術を、何度も乗り越えきた皇帝プルシェンコ――その体はいったいどうなっているのだろうかと驚かざるを得ない。

「ぼくは試合が好きなんです。あの緊張感は、アイスショーではどうしても味わうことができないから」と語っていたプルシェンコ。

 来季は、パトリック・チャンも試合に戻ってくると宣言している。どのようなシーズンになるのか、エキサイティングな1年になりそうだ。




プル様は、どこまで前向きなのでしょうか。

もう十二分過ぎる程、頑張って努力し、結果も残しているのに、尽きない情熱に脱帽です。

引退していく選手が多い中、試合用のプログラムを滑るプル様が見られるのは、別の意味で楽しみではありますね。

無理しないように、目標に向けて、頑張ってほしいと思います。






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