やるぞ、と思ったものの
自分史のアウトプットをやるぞ、と前回意気込んだものの週末から風邪をひいてしまい、
なかなか手がつかず、
あっという間に2週間近くが経ってしましった。
時間が空くと、「こんなので世の中にとって意味あるのかな」
みたいなエゴもどんどん強くなって動けなくなってくる。
では勢いをつけて、、。
履歴書なら高校とかから始めるのだろうが、どこから始めたら良いのかわからないので、幼少期から始めてみたいと思う。
生まれは昭和38年(1963年)12月31日。午前2時ぐらい聞いている、
大分県大分市。
小学校教師の父、元小学校教師でピアノ教師の母の元に次男として生まれる。
父の名前「俊英」の俊をとって次男なので、俊二という安易な名前の付け方だと思う。
一生懸命考えて付けたっぽい兄の名前と違い、オレは安直な名前で大事にされてないよな、と
小学校だか中学校の時に思った記憶がある。
幼少期に育った町は新川町と言うところで、
覚えている風景としては、住吉川という近所の川がとても汚く(当時は排水を川に流していた家庭もあったと思うし、ゴミ投棄も多かった)、
養豚場や、怪しい旅館が川沿いにあったのを覚えている。
ちなみにネットでみたところ現在は川は綺麗だし、付近は一等地となっている。
こういう路面電車が幼少期は街中を走っていた。
テレビは白黒、白黒画面で見る「ウルトラQ」が怖かった。
風呂桶は鉄製で小さい頃は外から薪で焚いてたような記憶が微かにある。
鉄の桶に肌が触れると火傷しそうで風呂に浸かりながらびびっていたのは覚えている。
寂しかった。
母はオレが生まれてすぐ仕事に戻ったので、
一番小さかった頃の思い出は、シッターの”麻生おばちゃん”と公園に行ったりというもの。
祖母の通夜でオレだけが麻生おばちゃんに預けられて、
夜中に目が覚めてプアーって夜行電車の音を聞いたら
急に寂しく、悲しくて、怖くなって、大声で泣いたのを良く覚えている。
自分だけ永遠において行かれたような感じがしたのだと思う。
そんなかんなで、母親や父親との幼少期の思い出はあまり思い出せない。
肥満児
学校から帰ると、当時2世帯同居していた祖父母のところへ行き、夕方に父母が戻ってくる。
祖父は小学校校長時代は相撲部の監督もしており、
食いっぷりがいいと誉められるので、祖父母のところで一食平らげて、
家に戻ってまた(誉められたくて)夕食を平らげ、とやっていたので、
かなりの肥満児であった。
幼稚園の頃の餅つき
いじめっ子に
4つ上に兄貴からはイジメられていたと記憶しており、
小学校低学年の頃、自宅階段から足を持って引きずり降ろされた恐怖を、そして尻の痛みを良く覚えている。
兄貴にいじめられた鬱憤を晴らそうとしたのか、
小学校ではいじめっ子であった。
肥満で女の子までもいじめていた相当に嫌なやつだったと思うので、
クラスメートからは嫌われていたと思う。
苦しかった。
でも本当はみんなと仲良くしてみたかった、
でも仲良くしてって言えずどうやって接したらいいのかわからなかった。
嫌われていること、が悲しかった、
だからまたいじめてしまうという負のループであったように思う。
インナーチャイルド
自分の中の ”インナーチャイルドを癒す” というワークは何度か試みてみたが、
まだ抜けた感じはしない。
考えてみれば数十年にわたって蓋を閉めていたわけなので、
一度や二度のワークで劇的に変わるというものでもないよね。
「当時言えなかったこと、というのを伝えてみる」というコツは慣れないながらも少しずつ掴めてきているので、
続けてみれば何かあると、期待している。
今日はこの辺で。
ありがとうございます。