フィリップス曲線を思い出す


 何年ぶりだろう。人々がインフレに悩まされることになるのは。特に先進国に暮らす人たちにとっては驚きが大きいはずだ。世界各国で物価指数の更新が相次いでいる。ほとんどの地域で数十年ぶりの物価上昇が記録されている。

 一方、世界中の中央銀行はインフレと戦う姿勢を見せている。

 そんな中、主流派経済学においてインフレと失業には、一つの法則があった。フィリップス曲線に従えば、高いインフレ率は低い失業率をもたらし、低いインフレ率は高い失業率をもたらす。

 まずは、フィリップス曲線に争点を当ててながら、インフレと失業がどのように影響しあうかを考えてみよう。その上で、中央銀行がインフレを任意の方向へもっていこうとするとき、経済にどういった結果をもたらすだろうか。そして最後に今のインフレと中央銀行の政策が経済に与える結果を推測したい。

 


インフレ率と失業率はトレードオフ。高インフレ低失業か低インフレ高失業を選択する。


「高いインフレ率は低い失業率をもたらす」の意味

 

 インフレ率は通常、すべての物品の価格を含んだ物価の上昇率をいう。価格はいつも需要と供給のバランスによって決まるので、供給に対して多い需要は価格の上昇をもたらす。だから、需要が大きくなるとき、すなわち消費が拡大している好況の時にはインフレ率も上昇する。

 インフレ率が景気に対して肯定的に反応すると同時に、失業率は否定的に働く。需要が大きい経済の場合、物価の上昇とともに、追加の雇用を必要とするからである。需要に対しての供給には労働が必要であることを考えてほしい。例えば、需要が拡大したとき、企業にとっては売上の増加とともに利潤が拡大するだろう。企業は増加した利潤で、追加の雇用が可能になるし、それを望んでいる。需要があれば、利潤をより獲得するために、サービスの提供を拡大したいと思うからだ。人を雇い、より多くのサービスを提供できれば、需要に応えられる。人件費を超えて利潤を獲得することができる。

 逆のこともいえる。インフレが雇用を生む一方、失業率の一段の低下はインフレ率の上昇を促す。なぜなら、余剰労働者の減少によって、労働力の希少価値が高まり賃金の上昇に圧力がかかるからだ。また賃金は価格へと反映されているため、賃金の増加率はほとんど物価の上昇率と同義である。

  

 「低いインフレ率は高い失業率をもたらす」の意味

 

 インフレ率は、いつも景気に対して肯定的に反応している。それは供給に対して、大きな需要がある時価格が上昇するが、小さい需要には価格が下がるからだ。したがって、需要不足と不況は、価格の下落と低いインフレ率になって現れる。

 インフレ率と反対の動きをするのが失業率であった。だから、インフレ率の低下によって失業率は上昇する。言い換えれば、需要の小さい経済の場合、物価の下落と同時に、必ず雇用の減少を必要とする。

 例えば消費の減退と価格の低迷は企業の利潤の低下原因となっている。それは追加の雇用を難しくし、今いる労働者を解雇する要因となるかもしれない。仮に需要がないのにサービスを提供すれば、それは利潤を減らすだけのコストでしかない。だから需要不足と不況に陥れば、企業は人件費というコストを削ろうと考えるようになる。

 インフレ率の低下が失業を増やす一方、失業率の一段の上昇は、インフレ率の低下をもたらす。人員のカットは確かに企業にとってのコストを減らし、価格を下げるようになる。さらに、今度は労働市場において労働者が過剰となっていくため、今度は労働力の希少価値が下がって、賃金と価格が下落していく。

 

失業と中央銀行のお仕事

 

 失業は本人にとってもつらいが、経済にとっても大きな損出となる。まず、労働力という唯一無二の資源が無駄に置かれてしまっているし、何よりも労働が減った分、生産量が減るからだ。生産量、言い換えればどれだけのモノとサービスが生み出されるかが経済の豊かさである。労働力の減少はそれを最大に既存する恐れがある。だから失業は誰にとっても望ましい状態ではない。

 したがって、最大限の生産量を維持するためにも失業は最小でなくてはならない。それにとにかく、需要不足と不況がいいという人は普通いない。それには、ある程度のインフレ率も許容しておくことが良いと考えるのが自然な流れであった。つまり、0~4%程度のインフレという多少の物価上昇と低い失業率の組み合わせである。

 では、実際に物価に影響を与える中央銀行は何ができるだろう。

 中央銀行は貨幣量(お金の量)を調節することによって、インフレ率をコントロールすることができる。中央銀行が貨幣量を増やしたとき、人々は多くの貨幣を手にしやすくなり、購買意欲すなわち需要が拡大する。需要はいつも価格に影響を及ぼすので、貨幣量の増加はインフレを生みながら、結果的により高い成長率(生産量の伸び)と失業の減少を実現する。貨幣供給量を減らせば、貨幣は手に入りづらくなる。モノへの購買意欲すなわち需要が減少して価格の下落を伴いながら、成長と雇用を抑制する。このように中央銀行の貨幣量の操作が物価を変動させることで、失業あるいは成長への間接的な影響力をもっている。

  例えば、ここ数十年の先進国は低いインフレに悩まされがちであった。低いインフレ自体が問題なわけではないが、それによる生産量の落ち込みと失業の増加は大問題なわけだ。では、この需要不足に対して、具体的に中央銀行は何をしただろう。

 例えば、08年には大きな景気後退がやってきた。したがって、需要の不足と、それによってもたらされた失業は深刻であった。

 ちなみに、この危機はリーマンショックと呼ばれ金融分野から派生した金融危機である。原因となったのは、米国内の住宅関連の負債である。これらは、過剰な融資が行われ、返済が不能となった債務が次々と現れて危機が発生した。経済は金融と一体となっていたので、この危機はたちまち米国と世界へ広がった。

 この危機によって、2%台で推移していたインフレ率は、0~1%台に低下する。危機による所得の減少などによって、需要が減少したからだ。同時に、失業率は4%台から、9%台へと上昇している。フィリップス曲線でいえば、低いインフレ率と高い失業率という組み合わせの状態になった。

 この動きに対してFRBは、大量の貨幣供給を行い、不況から経済を救った。金利を引き下げた他に、国債などを買い入れる形で貨幣の流通量を大幅に増やすことに成功する。

 中央銀行は貨幣量を増やすことで需要と物価を押し上げ、理想の成長率、失業率を実現させてみせた。インフレ率は2%台へ回復。危機発生後の6年後には失業率は6%台へと改善していた。米国の成長率が危機に際してマイナス成長に陥っていたが、その後は毎年プラス成長を達成する。

 リーマンショックの例を除いても、景気後退に対して中央銀行がやることは同じだ。物価が許す限り、貨幣供給量を増やすこと。それが、生産の最大化と失業の最小化へと向かわせることになるからだ。これが低いインフレ率と高い失業率に対する中央銀行の仕事である

 

70年代の記憶 

 

 ご承知のように、いまの世界にとって最大の経済問題はインフレというのが共通の認識になっている。特に長い間低いインフレが続いてきた、先進国にも広がっている。最新のインフレ率は、アメリカ9.1%、ユーロ圏8.3%、イギリス9.4%まで上昇した。

 もちろん、失業率は低く抑えられている。アメリカでは3.5%、ユーロ圏は6.6%(ユーロ圏は自然失業率が高め)、イギリスは3.8%だ。過去の平均的な失業率と比べても低く推移している。

 では、今度は高インフレ低失業といういまの置かれた現状に中央銀行が何をするかをみよう。そして、それが経済にどんな結果をもたらすだろうか。

  前提として言わなくてはいけないのは、いまのインフレは抑える方がいいだろうということだ。確かに需要に傾いている経済の方が、誰にとっても望ましいのは間違いない。

 しかし、それが言えるのは需要の拡大によって成長が改善し、失業率が低下するからである。例えば、低位のインフレはそれ自体大きく問題はないし、雇用情勢もよくなるはずだから、抑える必要はないだろう。

 だが、失業率がもはや下限に達しているように思われ、労働市場も逼迫している。需要がこれ以上の成長をもたらすことはしばらく考えられなそう。この状況下では、これ以上のインフレがもはや利点を生むことはない。

 インフレを抑えるため各国の中央銀行はすでに行動を移している。今度は、需要を減らす取り組みであり、貨幣量を減少させること。

 貨幣の量を調整する最も代表的な方法、中央銀行の金利はどうだろう。金利の引き上げは借り入れのコストを増加させるので、流通する貨幣量を効果的に減らしていく。アメリカはゼロ金利をやめて1.75%にまで急速に金利を引き上げた。加えて今後も金利を上げるいく見通し。イギリスも1.25%まで金利を上げた。ユーロ圏も利上げを確定して11年ぶりにゼロ金利から脱却した。これらの動きは、必ず価格を下げる方向へと向かわせる。そして、フィリップス曲線に基づけば、こうした取り組みがインフレを制御させ失業率を悪化させるということだ。

  現在に近い状況の70~80年代にも世界を高インフレが襲った。

 それはアメリカでも顕著であり、インフレ率は15%までに達していた。79年には新しいFRB議長が就任し、この価格を食い止めること、すなわち貨幣量を減らしていく方針を固めた。FRBは、81年までに政策金利を20%までに引き上げた。貨幣の供給が大幅に減ったと言えるだ。それは需要を引き締めたので、79年の時点で5%台であった失業率は、11%まで上昇してしまう。しかし、インフレ率は最悪期の10%超えから83年には4%以下まで低下させることに成功する。インフレの制御に対しての失業率の犠牲は大きかったようである。

  景気の鈍化と価格の下落、あるいは価格の高騰。いずれの場面での、時間をかけながらインフレ率を望む方向へもっていくことを中央銀行は実現させてきた。合わせて失業率も概ねフィリップス曲線に沿った動きをする。普段の緩やかなインフレ率には失業率が低下するが、インフレの下落に応じて失業率は上昇している。

 では、現在のインフレに対して、中央銀行の引き締め策は実際にどのような結果をもたらすだろう。わかっていることは、時間を掛けながらインフレ率は低下するだろうということ。もう一つは、失業率はいくらか上昇するだろうということだ。そして、それが景気後退や成長の減速と呼ばれるものになるか。

  もし、70~80年代のケースで言えば、大幅な引き締めとそれに伴い犠牲は大きいだろう。価格がなかなか下がらず、より高い金利が必要となる。そして、価格の抑制策が失業率をかなり高くすることになるだろう。

 引き締めの最中である80年と82年に米国の成長率はマイナスに陥っている。これは消費の減少すなわち景気後退と言える。だから、このケースのようにインフレが強固であれば、景気後退と失業の問題はかなり深刻になるはずだ。

 しかしながら、インフレは中央銀行の方針に割と敏感に反応するかもしれないと思われるデータも存在する。つまり、金利をそこまで上げる必要はなく、インフレ率は少ない犠牲で簡単に下がってしまうかもしれない。

 ひとつは各国の10年物国債の金利が示している。いくつかの先進国の10年国債金利は、米国約2.8%、英国約1.9%、フランス約1.5%、ドイツ約0.9%、日本約0.2%となっている。広範なインフレはこれらの国をも飲み込んでいるが、国債の利回りはそこまで高くなっていない。本来ならば、インフレを加味して投資家は高い利回りを要求するはずである。だから、インフレ率を埋め合わせられるぐらいの金利になってもおかしくない。例えば、米国のインフレ率は9.1%なのに対し米国債金利が2.8%なので、物価上昇分を差し引いた実質的な金利はー6.3%である。この著しくマイナスのリターンは投資家にとって飲めないはずだが、金利は上昇していない。少なくとも市場ではインフレは長期化せず、すぐ下がるだろうと見込んでいる証だ。

 そして、期待インフレ率(人々が予想するインフレ率)はすでに下落している。長期債利回りから物価連動債の利回りを差し引くと期待インフレ率がでる。市場が物価上昇を予想していれば、長期債を売り、物価連動債を買い込むため、利回り差が拡大して期待インフレ率が上昇する。しかし、市場の動きは長期債利回りの下落と、物価連動債利回りの上昇である。つまり、市場予想はインフレは一時的であると見込んでいるのである。

 国債利回りや期待インフレ率など、人々が予想するインフレは実際のインフレ率にも波及する。例えば、来年価格が上昇すると予想していれば、今の時点でモノを購入しておこうと考える人は多い。これは実際の需要となって、予想がインフレを押し上げる。しかし、現在は予想するインフレ率自体はほとんど高くなっていない。おそらく、人々は価格の上昇を受け入れていないのだろう。したがって、実際の需要にはならず、予想がインフレを押し上げていくことはないはずだ。人々の予想がインフレの定着となってない以上、物価上昇は一時的という味方も優勢であることは見逃せない。

  

 中央銀行は勝つが、犠牲の大きさは測れない

 

 中央銀行のインフレとの戦いは、今回でもおそらく勝利するが、どれほどの失業という犠牲が生まれるか未だ未知数だろう。(予想するインフレの低さから)価格が引き締めに即座に反応し、緩やかな失業だけでインフレを抑えることができればいい。70~80年代のように価格が根強く非常に深刻な戦いになれば、経済へのダメージを大きいだろう。このとき雇用情勢はかなり悪化する。そして、成長が止まった時人々はそれを景気後退と呼ぶだろう。実際、成長率は年間を通じてマイナスになるかもしれない。

  私たちは、フィリップス曲線のどこにいるかを大体の位置を指で挿すことができる。また、目的地も分かっている。しかし、このカーブがどの程度の厳しさなのかは後になってみないとわからない。中央銀行はすでに、歩き始めているが目的地までの道のりはまだ把握できていないのが実のところだ。