2024/01/01
韻イン
あけましておめでとうございます
アケマシテオメデトウゴザイマス
Chúc mừng năm mới
チュックムンナムモイ
今年もよろしくお願い致します。
今年の目標は、
「韻」です。
そして言葉を粒立たせる事です。
例えば、短歌、俳句、詩、歌詞、
全てにおいて日本語の場合、
その終始終息するところが御近所になりやすく、
皆同じ顔をしていて粒立ちません。
何故なら日本語は、漢字、英語と言った、
外来語との複合体だからです。
だから歌詞を書いても直ぐに、
愛とか恋とか言う在り来たりの言葉に終息し、
仕方なくこの不足を補填するため、
英語交じりを使っているミュージシャンが多い。
その方がイケメンだからだ。
独自の日本語歌詞回しを持っている
乙女ミュージシャンも居るのだが、
そうゆう人に限って不倫で叩かれる。
また頼りの混じり英語でさえ、
ラブラブアイコイを重ねるだけの歌が多い。
これで何年も
ニューミュージック
と呼ばれている大御所が居る。
この世知辛い世の中、
コードに引っかかる、
引っかからないと言う問題もある。
表現の枠は更に小さくなる。
そうなると、
似たような曲で似たような歌詞だが、
安全を見て今年も大御所に任せようとなる。
例えば今、マルクスレーニンの歌を作ったらどうなる?
多分その方面に表現の自由は無い筈だ。
「表現の自由」とは、砂上の幻だ。
悲しい。
歌詞の立場から見たらそうだが、
音の立場から見た問題もある。
音の作り方が例えば、
僕の知る限り何処も一緒である。
これは音楽が欧米優先でグローバル化したものだから、
その点で同じ方向に終始終息するのは当たり前だ。
だから言葉がloveとyouに馴染みやすく出来ている。
これは戦争に勝った国の特権であろう。
やはりこれからは民族音楽に、
活路を求めるしか無いのじゃないか?
集中集合から、分散多様化である。
文化には自由解散が必要だ。
そうゆう意味では、
僕のいた不敬罪の国は斬新だ。
民族音楽と英語を混ぜ合わせサラダを
ソムタムにする技術に卓越している。
最近特にその風潮を感じる。
リンクを参照願いたい。
この中の数曲は明らかに新しい。
ท้องฟ้า - PAPER [Official Musicvideo ]
モーラムと言う民族音楽があって、
僕が駐在していた頃ローカル従業員が、
酔っ払うとこの音楽を、
歌い、
踊り、
酔い、不満を吐き、
且つ、
嘔吐した。
モーラムとは
「モーラム(タイ語: หมอลำ)は、ラオスやイーサーン(タイ東北部)などにおける ラーオ族(タイ・ユワン族(タイ語版)を除く)
の伝統音楽である。モーラムとはイーサーン語あるいはタイ語であ り、ラオスではラムラーオ(ລຳລາວ)という。 モーラム文化の中心地はラオスよりもむしろタイにあるため、ルク トゥン (ลูกทุ่ง タイの演歌的な歌謡曲)に含ませてしまうこともあるが基本的に別系統である。 本来は独特のリズムとケーン(笛の一種)による主旋律、 裏返って途切れそうなボーカルを特徴とし、 その内容は生活の貧窮や行政批判など社会・ 政治的なものから恋愛や人情まで多岐にわたる。」Wikiped ia
タイ(某国)の地図、
右上部のこぶしが東北地方と言い、
イサーンと言う。
ラオスに密接しており、
僕が初めて行った25年前は、
貧しい地域の代名詞であった。
貧乏人はコンイサーンと呼ばれた。
でも多分ラオスからの人の流入もあり、
特に工場には東北地方の人が多く、
真面目で堅実との風評も高く、
確かタイ人口の中での占有も多いのではないか?
今年はモーラムを勉強し、
日本の民族音楽にも触れていきたい。
僕は不敬罪の国の7000万国民に嫌われる
片想いの日本人として、
エールを送りたい。
何も問題はない。
問題は不敬罪だ。
それが無ければ、
独立を保ち独特の文化を持つ良い国なのだ。
この立場はしっかりして起きたい、
シュプレヒコール(韻)だ。
肝に命じて、
韻を踏みたい。
合掌