登場人物」と言う物語13

 

1童貞と上陸

2買春と買夏

3樹上と巻物📜

4巫女と禁欲

5田舎と散逸

6純粋と培養

7津波とベルギー

8不敬罪と星

9安倍と麻生

10公務員と父

11一浪一流一鮪

12日本脱出計画

13選民失格

 

アルバイト、大学、自分の部屋、と言う三角形の生活が始まった。どれも京王線だったので、大体どこに行くにも不便でない距離。アルバイトは、CSKのバイトが、月の半分くらい入っており、それ以外に家庭教師と、短期のバイトでお金を作り、夏休みと春休みはその国に1カ月行く。今考えるとハードだった。原付無しにこなせなかった。それに、単位の残り方が半端じゃあ無かった。もうクラスの友人からはとうに見捨てられ、体育と語学は、今思うとよく取れたと思う。大学4年生で、ハンドボールをやっていると、先生には軽蔑の眼差し、学生には憐れみの声がかかる。しかもそもそもそんなに運動神経が良い訳でもない。あの時の僕は、必死で卑屈であるから、自分より1、2年下の学生(しかも友達のいなさそうな)を捕まえて、ノートをコピーさせてもらったりした。大学は裏口から入り、裏口から出た。そうゆうイメージだ。

 

アルバイトも、色々やったが、今思えば懺悔しなきゃ行けない事ばかりだ。成城学園にいた金持ちの中学生(基本、中学生がメインだった)の男の子については、高校事件前に掘ったらかしにして外国に出てしまった。これは酷い。確かお父さんが広告代理店のウチで最終的に高校はどこへ行ったのかわからないが、ここを借りてお詫びしたい。

 

この頃、富士銀行のクラブefと言う学生向けのクレジットカードが出来、藤屏は、これを僕に作らせた。20万の限度額。僕は、この時、例によって、クレジットカードと言う物が分かっておらず、お金を借りるカードだと勘違いをしており、後で会社に入って初めてクレジットカードの本業を知った次第である。このカードが無いと、海外旅行が不安で仕方無かったのに加え、大学5年生からは、CSKのバイトを辞め、しかも、父から5年生の学費は自分で払えと三下り半を突きつけられたために生活が苦しくなった。そんな時に現れたこのカードと丸井と、八王子駅前の学生向けのサラ金は、重要だった。どれか一つでも欠ければ大学卒業は無理で、日本を出るプランは不意になる。借金体質。思えば、原付を買った時から始まった病気だ。

 

こういう風な生活をしていると、バイト仲間も増える。最も印象に残ったのは、弁護士を目指す母子家庭の彼であった。そのバイトはCSKで味を占めた夜警のバイト。5年生になってから見つけたものだ。警備員で、夜警に入るものだったが、最初の病院は、府中精神病院だった。ここは文字通りの病院で公立だった。Googleで探してみたが出てこない。僕はあくまで夜警であったが、友人は中の介護のバイトをして初日に、自殺患者を相手にした。で、ちょっと怖くなり、このバイトは長続きせず、そこから次に見つけたのが八王子の中山記念胃腸病院であった。全て実名であるが名前が変わっていた。ここは、胃腸癌の病院で、八王子消化器病院となっている。この友人の名前を中山とするが、彼は母子家庭に育ち、奨学金を貰い、アルバイトをしながら、その目の前には、六法全書が開いてあった。あいつは、弁護士になったかな?僕が外国を目指している中、周りはどんどん殺伐として、そんな中で彼に愚痴のようなものを零しながら、病棟の癌患者の対応をしたものである。僕にとってそれは、人生の低空飛行すれすれの一夜で、二度と来るところでは無く、中山君にも心の中でサヨナラしながら、話をしていた。馬鹿だ。多分、今は逆さまの立場だろう。

 

この学生時代を生きて、思い出せば思い出すほど、自分の選民思想、選民思考が強い事だ。授業にいても、バイトに行っても、僕の頭の中は常にここから居なくなるばかりだ。自分は、この国から居なくなる、その想いは日々強くなり、母には言ってあったが、その頃は逆認知症状態であろう。選民は、こんな寒い日本でちまちましていてはいけない。更にチマチマした国で威張らなきゃならない。「鶏口となるも牛後となるなかれ」とまでは思っていなかったが、日本にいる気はさらさら無かった。正に「飛んで火にいる夏の虫」である。

 

大学の最期は、太宰治の卒論である。少なくともあの卒論は頑張った。それを書いた先生が偉くなると、僕の選民思想がうづく。

 

「渡部芳紀(わたべよしのり、1940年9月12日[1]- )は、日本文学研究者、中央大学名誉教授宮沢賢治太宰治石川啄木など日本近代文学を専門とする[2]。2020年瑞宝中綬章受章。」Wiki

東京生まれ。東京大学文学部卒業、1971年同大学院人文科学研究科博士課程満期退学。1967年武蔵高等学校教諭、1971年立正大学教養部専任講師、1975年助教授、1976年中央大学文学部助教授、1984年教授。1986年日本近代文学会評議員。2011年定年退任、名誉教授。退任後は岩手県下閉伊郡山田町に移住した。2020年春、瑞宝中綬章受章[3]。」Wiki

 

🅰️(多分🅰️だった。)をくれた先生が、Wikiで引ける幸せ。

頼むから、これが発展途上国の虚構でないことを。