「わたし怒ってしまいました」
コーヒーのネタをやろうと思ったが、今一つ広がりが希薄だったので、こちらで投稿させてもらいます。
毎日おじいちゃん、おばあちゃんと暮らしています。この病院の何%かの認知症の人の中には、「誰だかわからない何かに、怒っている人も多いのでは?。」と考えがちですが、結構おじいちゃんもおばあちゃんは、静かです。皆、自分のことで精一杯な感じだ。
むしろ、僕も含め、(僕は障害者だが)、健常者の人の方がよっぽど「怒り」に任せ行動しやすい。「怒り」は正常な人間特有の症状かと思ったりもする。
そもそも認知症なんて勝手に呼んで、線引きしているが、全ての人間がお互いを異常だと思い、その中で我慢して暮らしているのが人間社会であって、「あの人ね」「ちょっと聞いてくださる?」「ああもう我慢ならない!」「ここだけにしておいてください」と全ての人間がお互いに悪口でガス抜きして暮らして、何とかバランスをとっているのではないか?そうでないのであるなら、24時間同じ人と一緒に過ごす事も、不可能ではないはずだ。こんなに沢山のお年寄りを、施設に預けなくて済むはずだ。夫婦も、親子も、兄弟も、特に日本ではそうである筈だ。こんな平和な国でそれが出来ない。人間は皆、仲が悪い。
「いや違う。喜びや感動、そう言ういい感情もあるんじゃないか?」
しかし、そのいい感情というのは、
あなたが努力しなくても直ぐに消えて行く。
あなたが努力してもなかなか現れない。
「怒り」は何処かで燻る。そう言う「怒り」を「せっかく忘れたのに」と言われた時、ああこの人はこの「怒り」を未だしぶとく、覚えていたのか?と思い知らされる事は、よくあることだ。
「怒り」の最終目的は、その「怒り」の原因を取り除くしかないが、そんな事は簡単に出来ないので、ストレスになり、これが最終的に認知症の原因になっているなんて事はないか?アンガーマネジメントなんて言うが、歴然と「怒り」はあるのであって、否定する事は出来ない。それは人間一人一人の根本的な作りの違いとも言える。その違いがぶつかり合うとき、「怒り」となる。そして「怒り」は、毎日毎日、増殖している。
勘違いしないで欲しいのは、
「怒りを自分の生活から排除する」
「怒りを排除したことにしてる」
人の事を言ってるのではない。
仏教の話が出来るほど自分は未だ修行も勉強も足りない。
だが思うに、人間はこの「怒り」に冒されやすい生き物で、
それだけに、人間の中に「無」或は「空」を必要とする。
もう一度言う。
みんながみんな違う人間で、
それが為に「怒り」をその体に宿しやすい。
その「怒り」から逃れる為、認知症になる。
決して狂った訳ではない。
そう考え、おじいちゃん、おばあさんを眺めていると、
納得のいく事が多い。
「わたし怒ってしまいました」
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