狭い、鍵付きの喫煙所で『名無し』さんは嬉しそうに言った。

「携帯ラジオが欲しくてね、やっぱりメイド・イン・コレアのがいいかなぁ。」

『名無し』さんは、医者や看護師達を除いては誰にも絶対に名前を教えてくれない。
俺が「そんな風だと、『名無し』って呼びますよ?」と言ったところ、本人は満更でもない、と言った顔をした。
『名無し』さんは統合失調症で、障害者手帳も1級であるらしく、入院しても食事代だけで済む、とどこか得意気に言っていた。
別にそれで俺は不快になった訳ではない、入院費用の要る3級と要らない1級、どちらもそう差のある事ではない。

急に『名無し』さんは、身悶えして言った。
「ここに、居るなって、出ていけって・・・」
どうやら、幻聴らしい。
『名無し』さんは急いで喫煙所を後にした。

それからしばらく俺以外の喫煙患者が出入りし、そして『名無し』さんが戻ってきた。
「やっぱり、幻聴より煙草だねぇ」
『名無し』さんは、ふふふ、と笑った。

ライターはもう、詰め所に返却されている。
借りた者が返す、システムである。
喫煙時間内とは言え、ライターを取りに行くのも面倒くさい。

『名無し』さんは、いつまで生きたいのだろう?
もし長生きしたいなら、俺の命の一部もあげるよ。
そんな気持ちで、俺の煙草から『名無し』さんの煙草に火が伝わっていく。
小さく地面に座って満足そうに煙草を吸う『名無し』さんの横で、俺もまた、煙を吸い込んだ。