他人(ひと)の邪曲(よこしま)を観るなかれ

他人のこれを作(な)し
かれのなにを作さざるを観るなかれ

ただおのれの何を作し
何を作さざりしを
想うべし


釈尊(友松円諦訳)





現代版の森田療法でしょうか

絶対的信頼を置く精神科医元主治医に
「症状や周囲に囚われることなく、やるべきことをやりましょう」
と言われたことを思い出します


他人のこれを作(な)し
かれのなにを作さざるを観るなかれ


これは、他人がどんな状態で、何を作し作さざるのかによっても
とても難しいことだと思います

そこに相手への様々な感情があれば、なおさらです
だから、

ただおのれの何を作し
何を作さざりしを
想うべし


ということも、とても難しいことだと思うのです


金銭や物欲、幸福に限ったことだけではありません

他人の不幸は蜜の味・・
いつもいつも、そうでしょうか?
時にはそうかもしれません、確かにそういう時もありました
それで立ち直ったこともありました

しかし、心が生きている心地がしない状態で蜜の味など
分かりようもありません


一方、他人の苦しみが己にとって苦い汁である時
そこに感情というものが多いほど、『観るなかれ』とは更に困難なことと感じます


他と我は
一刀両断してしまえば簡単なようでありながら
そこには一刀両断してしまえない複雑にもつれ絡み合ったもの

難しい言葉であると、感じます
人間ですから・・



『他人(ひと)の邪曲(よこしま)を観るなかれ』

これは今でもどう解釈してよいか分かりません
経験値の低い若造では、まだ



※私、惟人個人の考えとしてであり、真意がどうかは分かりません