※再掲載(修正あり)です、自分自身に今一度言い聞かせるための更新です





「第三十夜 ・ 【祈り】なんて役に立たない」



祈ることで解決したり、よくなったことなど、
歴史上一度もないのですから。

宗教に頼って祈っているだけでいい、
自分はがんばらなくても祈れば何かを得られる。
それは怠け者の発想だと思いませんか?

裏口入学や不正な教員採用のように違法な考えです。
ハンドパワーで虫歯や癌がなおりますか?



成美堂出版 / アルボムッレ・スマナサーラ著



・・この章は、「がんばる」「怠け者」と、私には少々耳の痛いものですが。
【私利私欲】にかられて、それが現実となるように【祈る】ことを、愚かであると言っているようです。

私は【私利私欲】を持つことが、必ずしも【悪】であるとは思いません。
性悪説を信じますから、それが人間なのだと思います。
『心の中でなら、何をしたっていい。心の中に、タブーはない。』のですから。
犯罪も殺人も世でタブーとされる行為も、行動に移されて初めて裁かれるものとなり、身を滅ぼすものとなるのではないでしょうか。

愛しく想い、大切に想い、そしてただただ想うのは、また別のものであると思います。

【祈り】には祈る対象物が必要です、”神や※※様”などがそうでしょう。
そしてそこに見返りを求めます。
「※※様、この病気を治してください。」
「※※様、あの人と一緒にならせてください。」

一方【想い】には対象物は不必要です、自分の勝手な想いですから。
対象物がないから見返りがなくとも『ほら、やっぱりね』逃げ道ができます。
「この病気が、いつか少しでも良くなれば。」
「あの人と少しでも長く繋がっていられたら。」

私は【神・仏・祈り】を一切信じていません。
【祈り】と【願い】は国語辞典などでは同義語として書かれていますが、線引きのようなものとして私は個人的に区別しています。
【願う】≠【神仏に、望みがかなうように求める】ということではありません。

が、対象物のない【願い】をすることは度々あります、【想い】よりも強いでしょうか。
どちらにせよ、そこに神仏は不必要なのですけどね。

キリスト教、イスラム教では、全ての概念が神によって語られています。
神を信じれば、天国へいけます。
神を信じなければ、地獄へいきます。
詰まるところ、その他の宗教の人間は全て地獄いきです。
はい、残念~☆

宗教の全てを否定はしません、供給があれば需要もある。
人によっては『神(※※様)に、救われた』と、感じることもあると思います。
でも私はそういったことは一切信じません。
神に祈って病気が治ったのは、主治医と患者の努力、そして治癒と言う現象は必然であった。
”神”とは、人間の創り出したモノであること。
”絶対的存在”など、この世には存在しない。



(不快に感じられる表現等ありましたら、申し訳ありませんでした。)



$雪 時々、雨

あ、禁煙は続行中です(笑)