『誰か』が『何か』が無性に欲しくなる時がある。


それが『誰』なのか、特定の人なのか誰でもいいのか、『何』なのか、特定の物なのか力なのか才能なのか或は何でも良いのか、それすらも分からない。それでも時折衝動はやってきて、なす術もないまま去っていく。残されるのは衝動の痕跡と変わらない自分。変わらない日常。


前の方が、衝動がやってくる頻度も衝動の大きさもずっと大きかった。自分は何も持っていない、そんな無力感。手の中には何もない、この先手に入れられるのかすら分からない、そんな焦り。

感じなくなってきたのは成長なのか退化なのか。


24時間。7日。52週。それが後何年続くのか。

生きることは死に向かうことだと思っている。悲観的とか、無気力とかそういうことではなく。


仕事が終わるまで後何時間。次の週末まで後何日。月曜の朝は憂鬱で早く次の週末が来ることを願っている。多かれ少なかれ、多数の人が思っていることだろうけど。もう少し。もう少し、何か違う形があるんじゃないかと思っている。


日常がかけがえのないものだと思っているし、思っていたい。毎日毎日が煌いていたらそれがいいけど、中々そうはいかない。それでも、どこかでキラキラする瞬間を信じていたい。何でもいい、何かに対して『好き』だと思える瞬間、キラキラする瞬間を大切にしたい。それを少しでも増やしていきたい。


何かを掴みたいと思っている。手を伸ばせば掴めるんじゃないかと思っている。もう少し。もう少し、手を伸ばせば。そう思って、でもまだ掴めないまま。手の中には何があるんだろう。何もないと思って自分の手を見つめていたあの頃から何が手に入ったというんだろう。何を掴みたくて、何を手に入れたくて、手を伸ばすんだろう。


後もうほんの少しなんだと思っているんだけれど。

文字が読めるってのはどういうことなんだろう。卒論のテーマの一つでもあったんだけど。

例えば、『りんご』

・『りんご』と書かれた文字を読める。けど、それが何を指すのかわからない。
・『りんご』と書かれた文字を読めるし、それがあの果物を指すと分かる。

あるいは、

・『りんご』の文字が読めるし、実物が分かることに加えて、りんごの周辺知識を知っている。

文字が読めるとは、どこまでを言うのだろう。

日本語だとあまりピンと来ないかもしれない。
例えば、『apple』
・『apple』を『アップル』と発音できる
・『apple』を発音できるし、それが日本語でいう『りんご』だと分かる。
・『apple』を発音でき、りんごだと分かる。かつ、それが文化の中でどう位置付くのか—例えばイブとアダムが食べた禁断の果実はりんごだった、と言ったようなこと—が分かる。

文字を読むことは、生きていく中で必要不可欠な能力である。文字を読み、文字を書き、文字を使いこなすためには、3つめのことで分かる必要があるのだと思う。

それは身に付いているのだろうか。どのようにして身に付けていくものなのだろうか。