今回は親子関係について、私なりの考察を綴っていこうと思います。(初めてブログを訪れた方は、一覧から読みたい記事にお進みください)
クロワッサンという雑誌に本を取り上げていただいた際、「なぜ、主人公を施設出身にしたのですか?」と質問されました。実は、カレーの次に多くの人に尋ねられた質問がこれ。
「母親の味が一番、ではない、おいしい小説を書きたかった」
そう答えた後、私は言葉を補足しました。
「料理を題材にした小説は、母親から受け継いだ味をテーマにしたり、一家団欒の食卓こそ幸せの原点といった、家族愛を賛美する結論になりがちです。けれども中には、そのような内容に心が萎んだり、疎外感を感じる人もいるのではないでしょうか」
他人事のように語りましたが、個人的感想を漏らしたに過ぎません。
カレー小説を書いたにもかかわらず、私は母親が作ったカレーを1度しか食べたことがありません。
普通とは言えない家庭環境で育った私は、主人公を親子の繋がりを持たない人物に設定にし、親以外の人たちが主人公を支える物語にしました。
親子関係に悩む人にとって、エールとなる「おいしい小説」にしよう!
世の中には、そんな小説を必要としている人だっているでしょうし、本を読んでくださった人の心が少しでも軽くなれば嬉しい。そんな気持ちで小説を書き進めました。
● 親孝行という名の呪縛
この世で一番厄介な人間関係。それは親子かもしれません。
「親が嫌い…」
たとえその気持ちが真実であっても、人前でその言葉を口に出すのは憚られると思います。
その場の空気を重くし、ドン引きされ、相手によっては軽蔑されることを覚悟しなければなりません。
人が大勢集まれば、中には意地悪な人やずる賢い人だっています。
クラスに1人や2人は気が合わない人がいるでしょうし、自分に非がなくとも、傷つけられた経験は誰しもあると思います。
同級生なら距離を置けばいいし、面と向かって喧嘩をしたって構いません。そんな人など放っておいて、別の人と友達になればいい。けれども相手が親となると、少々事情が異なります。
他の人間関係と異なり、親だけは替えが効きません。だからこそ良好な関係を築きたいところですが、親の顔を思い浮かべただけで心がどんより重くなる。そんな人もいるでしょう。
けれども親と相性が悪かろうと、離れて暮らしていようと、時折胸がチクチク痛みます。
なぜなら美徳の金字塔ワードが、心の鐘を鳴らすから。その言葉とは――
親・孝・行
すべての人の心に深々と根付いているこの概念は、潜在意識に刷り込まれているため、私たちは親に対してネガティブな感情を持つことに、罪悪感を覚えます。
生んでくれたこと、育ててくれたことを、恩と思って感謝しなければならない。
心のどこかで、親を愛せぬ自分を責め、親に感謝できない自分を責めている人もいるのではないでしょうか。
● あなたの親はどんな人ですか?
詳細は控えますが、私の母は相手が最も嫌がる言葉を、最も的確なタイミングでぐさりと突き刺す、いうなれば人の心を傷つける才能に長けた人でした。
戦国の世に生まれ、槍でも持たせれば、加藤清正のように歴史に名を残すひと角の人物になれたかもしれません。
ですが幸か不幸か、昭和という時代に生まれた母は、女性としての幸せを掴もうと、結婚、出産という道を選択します。
子供は親を選んで生まれてくると言う人もいますが、実際はくじ引きのような出会いから親子関係がスタートします。
前世、槍を握りしめていた武将気質の母親は、残念ながら子育てに関心を示す人ではありませんでした。吉凶入り混じる箱の中から私が選んだおみくじは、罰当たりな発言で恐縮ですが、凶だったのです。
親がどのような人物であれ、幼子は親の庇護がなければ生きていけません。そして親に本能的な期待を抱きながら成長します。
自分の存在を肯定してほしい。
かけがえのない存在として愛してほしい。
この思いは、「この世に自分が存在しても良い」という社会的生物としての承認欲求に他なりません。
ここで、想像力を働かせてください。
3歳のあなたは、親から日常的に暴力をふるわれます。
10年後、あなたは親に性的虐待を強いられそうになります。
私の体験談ではありません。ですが、児童養護施設で実際に聞いた話です。
ここまで極端ではないにしろ、自分の価値観を子供に押し付けたり、過保護だったり、多分に感情的だったり、子育てを放棄したり、精神的に未熟な親だっているでしょう。
親と死別したり、離婚により片親の顔しか知らない子供も、少なからずいるはずです。
状況により、親や周りの人たちから投げかけられる言動は異なりますが、人格を否定されたり、愛情をかけられなかった子供は、犬や猫だって愛がない人には懐かぬように、親に愛情を抱けぬまま大人になります。
● ひとりの未熟な人間
親から自立すると、子供の交友関係は一気に広がります。様々な考えを持つ人たちに揉まれ、良くも悪くも人間というものを学び、慌ただしく仕事をこなしていくうち、いつしか親が自分を産んだ年齢を超えます。
観察眼を養い、一人の人間として冷静な目で親を見つめると、今まで気づかなかった「精神的未熟さ」が、浮き彫りになって現れるかもしれません。
ここでいう未熟とは、「自己中心的な視点」を意味し、そのような人は自分の経験や価値観で他人をジャッジします。
映画の助監督をリタイアした後、私は東洋医学を学び、デイサービスを立ち上げました。
高齢の方々と毎日接するうち、年齢を重ねれば多少性格丸くなっても、精神が成熟するわけではないという事実を学ぶに至ります。
人生の先輩を侮辱しているわけではなく、性格が丸くなったと感じるのは、ひとえに感受性や反応速度が緩やかになったからで、日頃から自分の思考を冷静に見つめ、研鑽を重ねなければ、心というものは成熟しないのです。
自分の親も、人として成長過程を歩いている未熟な人間に過ぎない。
そんなことに気づくと、力関係は逆転せずとも、親子関係の天秤が左右のバランスを取り始めるようになるかもしれません。
● 親子関係を超越する
年齢が上がるにつれ、人の関心は友人や恋人、新しい家族など、自分を取り巻く人間関係に移っています。罪悪感で心が痛むことはあっても、最低限の関わりをこなせばよいと、親と割り切って付き合うようになります。
この頃になると、私も母のもとに生まれて良かったと思えるようになりました。ですがこの学びに至るまで、実に多くの年月を費やしました。
けれども、それで心が平穏になったわけではありません。なぜなら人は夢を見るからです。
今思い出しても最悪の気分になるのですが、夢の中で、私は母の首に手をかけて――、
夢から覚め、茫然としました。
時間とお金を費やして癒したはずの心の傷も、経験から得た学びも、結局のところ意味をなしていなかったのです。
頭では理解したつもりでも、夢はコントロールすることができません。
ここまで苦しめば、もう十分ではないか…。
その後、母とは疎遠になりましたが、両親も私の気持ちに気づいているので連絡を迫ってくることはありません。
自分を解放し、私は初めてあることに気づきました。
私が自由な存在であるのと同様、親も自由な存在ではないか――。
子供は親に最低限の優しさや、できれば尊敬に値する人物であってほしいと望みます。ですが親にだって一個人としての考えがあり、自分が生きる道を自由意思で選択していいはずです。
子供の養育を放棄しようと、ろくでなしの人生を送ろうと、それは本人の意思で選択した結果であり、たとえ親子であっても、相手が何を考え、どのように行動するか、ひいてはその人が形成する世界観や、人生に介入することはできないのです。
過度な期待を手放し、自由な世界へ相手を解き放つ。
親の在り方に同意することはできずとも、一人の人間としてある程度理解を示せれば、学びとしては十分なのではないでしょうか。
誰しも、自分の親のもとに生まれた意味を考えることがあると思いますが、私の場合、親の庇護を受けずに育ったからこそ、自立した人間に成長することができたと思っています。
幼少期を顧みて、あれ以上の不幸が起こることはないと腹を括れば、何にだって挑戦することができました。職業を自由に選択し、日本一周や世界一周の旅など、自分がやりたいと思ったことに着手し、様々な経験を存分に味わってきました。
そしてありがたいことに、小説の主人公同様、私も周囲の人たちの愛情に恵まれました。
今だから言える結論として、必要以上に親との関係に悩み続けるより、異性であれ、同姓であれ、尊敬できる人たちと良好な関係を築いた方が、人生はずっと楽しく豊かになります。
あなたは、あなたの人生を、自由に、軽やかに歩んでいけばいい。
春になってコートを脱ぐように、心に抱えた荷物を軽くしませんか。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。


