物事がまっすぐ捉えられなくなったとき、例えば自分と他人を比較していることに気づいたとき、数字を気にしてしまっているとき、音楽を楽しめなくなったとき、僕は銭湯にいく。

 

一日の頑張りと疲労を携えて、扉を開けばそこには楽園が広がっている。もくもくしているし、みんな何も身に着けていない。はだか、なのである。ここでは年収も偏差値も家賃だって関係ない。ぽっかりと空いた穴のように、日常から取り残された空間なのである。

 

椅子にどてんと座る。桶にお湯を張って、あたまからお湯をかぶる。ざぶーん。あちち。お湯はあつめくらいがちょうどいい。その方が汚れが良く落ちるだろう。シャンプーを手に取ってごしごしと泡を作って、頭をしゃかしゃかとこする。その間は鏡越しの自分だけを眺める。少しぼさぼさになった眉毛、分厚いまぶた。すこし大きい鼻。目はどちらかというと大きい方だと思う。眉毛と眉毛の間にほくろがあることに気づく。今日しゃべったあの人も僕のほくろに気づいただろうか。たぶん気づいていないだろうな。こうして自分を見ていると、いかに自分が普段、目の前の肉体を意識していなかったかに驚かされる。仕事、お金、人間関係。そんなことよりもまず、おまえはひとりの人間だろう。れっきとした、個人だろう。それを忘れてはいかぬ。鏡の自分にそう言い聞かせたころにはもう背中まで流せているだろう。そうしたら、湯船にそうっとつかる。足先から腰、やがて首元まで。波風を立てないように、ゆっくりつかる。あぁ。自然と声が漏れる。さっきまで僕を覆っていた膜のようなものがはがれていくのを感じる。目をつぶる。何も見えない。何も聞こえない。自分だけが、そこにはある。真空なのである。自分がどこの誰であるかなんて関係ない。永遠に無なのである。自分を覆っていた膜のようなものが全部湯船に溶けて、つんつるてんになったとき、もう湯船はじゅうぶんになっている。そうなったら、あがりどきだ。服をまとって、外に出る。

 

風呂屋の暖簾をくぐったとき、僕は生まれる。この世に初めて生を受けたかのように、すべてのものが新鮮に見える。そして、この世界が美しく見える。自動販売機の光も、水たまりに反射した街灯も、家と家の間の暗がりさえも、ぜんぶ、きれいに見える。そして、何が素晴らしいかって、僕はこの世界で生きていけるんだ。なんだってできる。走ることができるし、写真を撮れるし、ぎょうざだって作ることができる。あいつに電話をかけることもできる。こうやって生まれた僕は毎日が楽しみで仕方がない。僕は不死身だ。