結論からいうと
あった、なかったでいえば、それはあったということにはなると思います。
実際に帝国憲法第11条にも明記されています。
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
これは憲法上は、天皇大権に陸軍や海軍への統帥の権能があった事を示しています。
ただし、実際には戦略の決定、軍事作戦の立案、指揮命令をする軍令権、その他の権能は、陸軍においては陸軍大臣、参謀総長に、海軍においては海軍大臣と軍令部総長という「軍事の専門家」に委託されていました。
ちなみに帝国憲法においては、天皇は特別な事情がない限り、政治においては、国務大臣が輔弼することとなっており、軍令については統帥部が補翼することとなっていました。
これは「慣習」であり、憲法に明文の規定はありませんでしたが、事実上そうなっていたという事は
帝国憲法第5条
「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」
帝国憲法第55条
「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」
などの運用からも明らかです。
勿論、この「慣習」は、意図的に形成されたものであり、これは帝国憲法制定当時に事実上国家をリードしてきた維新の元勲達が、政治家が統帥権をも握ることによる事実上の「幕府政治再興」の可能性や、天皇その人が「独裁者」となる可能性などを排除する必要を考慮したため、と言われています。
ただ維新の元勲は、日本が近代国家として成熟するまでは、自分達が国家を領導していく必要がある、と考えていたと見られ、政治に「口をだす」権限を温存したかった、という側面も見逃せないように思います。
実際に初期の時点で天皇大権により統帥権が発動された例として、日清戦争当時に明治天皇の特旨により、本来メンバーでない伊藤博文総理が大本営に列席し、軍事作戦に「助言」した、というケースがあり、帝国憲法制定の当事者達の「内心」がうかがえます。
これが維新の元勲達の「政治の現場」からの退場にともない次第に形骸化し、後を引き継ぐかたちとなった「官僚」(軍人に限らない)が、自分達に有利な「憲法解釈」を行う事で、様々な「制度」が作られ、天皇自身が大権を行使できなくなる「体制」が形成されていきました。
(事実上の「官僚幕府」ができた、と考えてもいいと思います)
結果的に「空前の無責任体制」が生まれ、破局に向かっていったのは、ご承知の通りです。
ちなみに言うと、終戦時の「御聖断」にしても、実際には昭和天皇は何も「決定」していません。
あくまでも昭和天皇がポツダム宣言受諾に同意を表明しただけのことです。
重要なのは、この発言そのものに決定権はないということ。
昭和天皇の意思表明がなされた上で、もはや原爆投下やソ連の参戦などにより足下が危うくなっていた主戦派も意見を押し通すことができなくなり、ポツダム宣言受諾に「同意」したわけです。
会議参加者が「同意」し、ご聖断を受け入れるという「決定」をしなければ、それは実行されることはなかったんです。
戦争中においても昭和天皇は、いくたびか「助言」はしていますが、多くの場合は「現場」に無視されています。
勿論、現場が「同意」した場合には、何らかの「決定」をする事もありましたが、それすらも現場の「判断」により、いつの間にか無視され、既成事実が作られてしまった場合があります。
法令上の天皇大権と、現実の落差を象徴するような出来事があります。
古川隆久氏の著書『昭和天皇』(中公新書)P191より抜粋。
>一九三五年四月に満州国皇帝溥儀が来日することとなった。
現職国家元首の来日は史上初のことである。
その準備過程で、天皇と皇帝同席の観兵式が計画されたが、陸軍は軍旗を天皇には敬礼させるが皇帝には敬礼させないという方針をとった。
これは国際慣例に違反するものであり、昭和天皇は、本庄に対し、
「軍旗は朕の敬意を払ふ寛容〔賓客〕に敬礼せずとせば、軍旗は朕より尊きか」
と苦情を述べた。
これに対し本庄は、
「軍旗は平戦両時を通じ、天皇の表徴として〔中略〕国軍の忠勇は実に崇厳なる軍旗に負ふ所多し、従て軍旗に対する信仰を、幾分にても減ずるが如き事は御許を願ひたし」
と反論し、天皇も引き下がった
→天皇の要請より、「軍旗に対する信仰」の方が大切だから余計な発言はしないでくれ。
という事です。
あと、わかりやすい例としては熱河事件があげられるでしょう。
熱河作戦の準備に際して、関東軍が事実上の作戦開始許を求めてきたとき、昭和天皇は難色を示し、とりあえず熱河作戦は万里の長城を超えないことを条件として許可しています。
あとで昭和天皇は、斉藤内閣が国際関係悪化を招くとして熱河作戦に不同意を表明していたことを知り、あわててした命令を撤回する、と主張しましたが、関東軍は「天皇に作戦許可をもらった」と内閣の方針を無視して作戦を強行してます。
しかも、関東軍は長城を超えないという作戦許可の条件を無視して戦線を拡大していきます。
ついに昭和天皇は参謀総長に対して作戦中止をうながし、関東軍もいったんはこれに従って進撃を止めますが、ほどなく軍事行動を再開し、どうにもならなくなっていきます。
なお、よく云われる問いとして
昭和天皇が憲法などを無視してアメリカとは戦争しない・してはいけないと言ったら戦争は回避できたのですか?
というものがありますが、結論だけ言えばできませんでした。
やるとすれば陸海軍大臣や参謀総長の辞任、さらには軍の不満分子のクーデターなどを覚悟しても陸海軍に対する不満を表明し、これを積極的に指導する、という方法をとるしかありませんが、現実問題としては無理です。
例えばニ・二六事件の際でも、昭和天皇は確かに「速やかに鎮圧せよ」と川島陸相に命じていますが、これは十数時間にわたって陸軍当局に無視されています。
この昭和天皇の窮状を救ったのは、結果的に強硬弾圧の方針を打ち出した参謀本部でしたが、その主たる理由は青年将校達が勝手に軍を動かした事にありました。
(伊藤之雄『昭和天皇伝』P245~246より)
ちなみに近現代史家で京都大学大学院教授の伊藤之雄氏はその著書「昭和天皇伝」(文芸春秋)でこう書いています。
>「明治憲法でも天皇は貴族院と衆議院からなる帝国議会の協賛によって立法権を行い(第五条・第三十三条)すべての法律は帝国議会の協賛を経なければならず(第三十七条)、毎年の予算は帝国議会の協賛を経ることが必要であり(第六十四条)、帝国議会は毎年招集する(第四十一条)などというように、議会が天皇の行為を制約した。
また国務大臣は天皇を輔弼する責任があり、法律・勅令や国務に関する詔勅は、すべて国務大臣の副署を必要とする(第五十五条)というように、国務大臣も天皇の行為を制約していた。
司法に関しても、司法は天皇の名において法律によって裁判所で行うことになっているので(第五十七条)、天皇が恣意的に介入する余地はほとんどなかった。
天皇は神聖にして侵すべからず(第三条)という有名な条文は、天皇が法律上や政治上の責任を問われないというものであり、君主が自由に様々なことに関与できるという意味ではない。」
「また、天皇は首相や閣僚を辞任させることができるが、辞任できた空席を埋めることができる保証がどこにもなかった。このような憲法運用上の問題からも、天皇は自由な権力行使ができなかった。とりわけ、陸海軍大臣という軍の最高級ポストについて、後任者が得られないと、内閣が成立あるいは存続できない。その結果、軍関係閣僚を罷免した天皇の政治責任が言外に問われることになり、天皇はたちまち窮地に陥ってしまうのである。」
>「したがって、日本の歴史上最有力天皇の一人といわれた明治天皇ですら、日常は政治関与を抑制し、藩閥内部や、藩閥と議会勢力の間で激しい対立が起きて意思決定が不可能になった場合にのみ、調停的に政治に介入する、という行動をとるようになっていった。」
「このことを考慮すると、たとえ不満な政策であっても、その政策を裁可しないために内閣が倒れる恐れがあれば、天皇は事実上裁可を拒否できなくなるのである。」
→昭和天皇は「憲法を守っていた」だけではなく、「守らされていた」という側面もあるという事がわかります。
そして、「憲法を無視する」というなら、それは昭和天皇自身が既存の政府、軍部に対して事実上のクーデターを起こす事を意味します。
残念ながら、それだけの強固な権力を昭和天皇は持ち合わせていませんでした。
ここではニ・二六事件などを例に挙げましたが、軍部が昭和天皇の意思を無視して都合よく事を運んでしまった例はいくつもあります。
なので、昭和天皇が「憲法を無視してアメリカとの戦争を回避する」というのは、事実上困難だったのは間違いないでしょう。
やはり天皇がそのような権限を有しなかったのではなく、現実がそのようになっていなかった、というのが、正しい理解だと思います。
あった、なかったでいえば、それはあったということにはなると思います。
実際に帝国憲法第11条にも明記されています。
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
これは憲法上は、天皇大権に陸軍や海軍への統帥の権能があった事を示しています。
ただし、実際には戦略の決定、軍事作戦の立案、指揮命令をする軍令権、その他の権能は、陸軍においては陸軍大臣、参謀総長に、海軍においては海軍大臣と軍令部総長という「軍事の専門家」に委託されていました。
ちなみに帝国憲法においては、天皇は特別な事情がない限り、政治においては、国務大臣が輔弼することとなっており、軍令については統帥部が補翼することとなっていました。
これは「慣習」であり、憲法に明文の規定はありませんでしたが、事実上そうなっていたという事は
帝国憲法第5条
「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」
帝国憲法第55条
「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」
などの運用からも明らかです。
勿論、この「慣習」は、意図的に形成されたものであり、これは帝国憲法制定当時に事実上国家をリードしてきた維新の元勲達が、政治家が統帥権をも握ることによる事実上の「幕府政治再興」の可能性や、天皇その人が「独裁者」となる可能性などを排除する必要を考慮したため、と言われています。
ただ維新の元勲は、日本が近代国家として成熟するまでは、自分達が国家を領導していく必要がある、と考えていたと見られ、政治に「口をだす」権限を温存したかった、という側面も見逃せないように思います。
実際に初期の時点で天皇大権により統帥権が発動された例として、日清戦争当時に明治天皇の特旨により、本来メンバーでない伊藤博文総理が大本営に列席し、軍事作戦に「助言」した、というケースがあり、帝国憲法制定の当事者達の「内心」がうかがえます。
これが維新の元勲達の「政治の現場」からの退場にともない次第に形骸化し、後を引き継ぐかたちとなった「官僚」(軍人に限らない)が、自分達に有利な「憲法解釈」を行う事で、様々な「制度」が作られ、天皇自身が大権を行使できなくなる「体制」が形成されていきました。
(事実上の「官僚幕府」ができた、と考えてもいいと思います)
結果的に「空前の無責任体制」が生まれ、破局に向かっていったのは、ご承知の通りです。
ちなみに言うと、終戦時の「御聖断」にしても、実際には昭和天皇は何も「決定」していません。
あくまでも昭和天皇がポツダム宣言受諾に同意を表明しただけのことです。
重要なのは、この発言そのものに決定権はないということ。
昭和天皇の意思表明がなされた上で、もはや原爆投下やソ連の参戦などにより足下が危うくなっていた主戦派も意見を押し通すことができなくなり、ポツダム宣言受諾に「同意」したわけです。
会議参加者が「同意」し、ご聖断を受け入れるという「決定」をしなければ、それは実行されることはなかったんです。
戦争中においても昭和天皇は、いくたびか「助言」はしていますが、多くの場合は「現場」に無視されています。
勿論、現場が「同意」した場合には、何らかの「決定」をする事もありましたが、それすらも現場の「判断」により、いつの間にか無視され、既成事実が作られてしまった場合があります。
法令上の天皇大権と、現実の落差を象徴するような出来事があります。
古川隆久氏の著書『昭和天皇』(中公新書)P191より抜粋。
>一九三五年四月に満州国皇帝溥儀が来日することとなった。
現職国家元首の来日は史上初のことである。
その準備過程で、天皇と皇帝同席の観兵式が計画されたが、陸軍は軍旗を天皇には敬礼させるが皇帝には敬礼させないという方針をとった。
これは国際慣例に違反するものであり、昭和天皇は、本庄に対し、
「軍旗は朕の敬意を払ふ寛容〔賓客〕に敬礼せずとせば、軍旗は朕より尊きか」
と苦情を述べた。
これに対し本庄は、
「軍旗は平戦両時を通じ、天皇の表徴として〔中略〕国軍の忠勇は実に崇厳なる軍旗に負ふ所多し、従て軍旗に対する信仰を、幾分にても減ずるが如き事は御許を願ひたし」
と反論し、天皇も引き下がった
→天皇の要請より、「軍旗に対する信仰」の方が大切だから余計な発言はしないでくれ。
という事です。
あと、わかりやすい例としては熱河事件があげられるでしょう。
熱河作戦の準備に際して、関東軍が事実上の作戦開始許を求めてきたとき、昭和天皇は難色を示し、とりあえず熱河作戦は万里の長城を超えないことを条件として許可しています。
あとで昭和天皇は、斉藤内閣が国際関係悪化を招くとして熱河作戦に不同意を表明していたことを知り、あわててした命令を撤回する、と主張しましたが、関東軍は「天皇に作戦許可をもらった」と内閣の方針を無視して作戦を強行してます。
しかも、関東軍は長城を超えないという作戦許可の条件を無視して戦線を拡大していきます。
ついに昭和天皇は参謀総長に対して作戦中止をうながし、関東軍もいったんはこれに従って進撃を止めますが、ほどなく軍事行動を再開し、どうにもならなくなっていきます。
なお、よく云われる問いとして
昭和天皇が憲法などを無視してアメリカとは戦争しない・してはいけないと言ったら戦争は回避できたのですか?
というものがありますが、結論だけ言えばできませんでした。
やるとすれば陸海軍大臣や参謀総長の辞任、さらには軍の不満分子のクーデターなどを覚悟しても陸海軍に対する不満を表明し、これを積極的に指導する、という方法をとるしかありませんが、現実問題としては無理です。
例えばニ・二六事件の際でも、昭和天皇は確かに「速やかに鎮圧せよ」と川島陸相に命じていますが、これは十数時間にわたって陸軍当局に無視されています。
この昭和天皇の窮状を救ったのは、結果的に強硬弾圧の方針を打ち出した参謀本部でしたが、その主たる理由は青年将校達が勝手に軍を動かした事にありました。
(伊藤之雄『昭和天皇伝』P245~246より)
ちなみに近現代史家で京都大学大学院教授の伊藤之雄氏はその著書「昭和天皇伝」(文芸春秋)でこう書いています。
>「明治憲法でも天皇は貴族院と衆議院からなる帝国議会の協賛によって立法権を行い(第五条・第三十三条)すべての法律は帝国議会の協賛を経なければならず(第三十七条)、毎年の予算は帝国議会の協賛を経ることが必要であり(第六十四条)、帝国議会は毎年招集する(第四十一条)などというように、議会が天皇の行為を制約した。
また国務大臣は天皇を輔弼する責任があり、法律・勅令や国務に関する詔勅は、すべて国務大臣の副署を必要とする(第五十五条)というように、国務大臣も天皇の行為を制約していた。
司法に関しても、司法は天皇の名において法律によって裁判所で行うことになっているので(第五十七条)、天皇が恣意的に介入する余地はほとんどなかった。
天皇は神聖にして侵すべからず(第三条)という有名な条文は、天皇が法律上や政治上の責任を問われないというものであり、君主が自由に様々なことに関与できるという意味ではない。」
「また、天皇は首相や閣僚を辞任させることができるが、辞任できた空席を埋めることができる保証がどこにもなかった。このような憲法運用上の問題からも、天皇は自由な権力行使ができなかった。とりわけ、陸海軍大臣という軍の最高級ポストについて、後任者が得られないと、内閣が成立あるいは存続できない。その結果、軍関係閣僚を罷免した天皇の政治責任が言外に問われることになり、天皇はたちまち窮地に陥ってしまうのである。」
>「したがって、日本の歴史上最有力天皇の一人といわれた明治天皇ですら、日常は政治関与を抑制し、藩閥内部や、藩閥と議会勢力の間で激しい対立が起きて意思決定が不可能になった場合にのみ、調停的に政治に介入する、という行動をとるようになっていった。」
「このことを考慮すると、たとえ不満な政策であっても、その政策を裁可しないために内閣が倒れる恐れがあれば、天皇は事実上裁可を拒否できなくなるのである。」
→昭和天皇は「憲法を守っていた」だけではなく、「守らされていた」という側面もあるという事がわかります。
そして、「憲法を無視する」というなら、それは昭和天皇自身が既存の政府、軍部に対して事実上のクーデターを起こす事を意味します。
残念ながら、それだけの強固な権力を昭和天皇は持ち合わせていませんでした。
ここではニ・二六事件などを例に挙げましたが、軍部が昭和天皇の意思を無視して都合よく事を運んでしまった例はいくつもあります。
なので、昭和天皇が「憲法を無視してアメリカとの戦争を回避する」というのは、事実上困難だったのは間違いないでしょう。
やはり天皇がそのような権限を有しなかったのではなく、現実がそのようになっていなかった、というのが、正しい理解だと思います。