いしき  の  そこ  は  いしき  の てんじょう  でも  あった






ぼくは いしき の なか を およぐ ”√わたし” と いう いしき で あった





びっげすと な いしき は きゅうたい。じかん も くうかん も こえた きゅうたい

きゅうたい の なか に、じかん と くうかん が こしらえられていて

その いってん に ”√わたし” が ふぉーかす している





にじゅういっせいき  の  にほん  の  ちじょう

にじゅういっせいき  の  にほん  の  ちじょう  の  ひとつ の にくたい に  

”√わたし” が ふぉーかす して

 ”√√わたし” が きーぼーど を たいぷ する





びっげすと  な  いしき  は  ”わたし” である

それ  は  そうぞうしゅ





この  ちじょう  に  60おくいじょう  の  ”√√わたし”  が  そんざい  して  いる

だれも  が  ”わたし”  の そうぞう  の  なか に  ある

”わたし”   と いう  いしき は、 「しゅうごういしき」  と  よばれるもの



”√√わたし”たち  は、ちじょう  が  てん  に  あたえられた  くに、

てんごく  で  ある  こと  を しっていて、そのように  ふるまう  ことが  できる


ひつよう な もの は   すべて  あたえられて   いる


いし  の  ちから  を  さいだいげん  に  つかおう

らぶあんどぴーす  は  げんじつ  だ



”わたし”に もどって たてなおす    そうぞう


いしき  は  きゅうたい  で    てん も そこ も おなじ  そら
わたしは(わたしという意識は)、この肉体の中にはない。

意識は感覚が起こる前にすでに存在している。

わたしは、一点の時間の中にもない。今も過去も未来もすべる。

意識は時間の順序の起こる前にすでに存在している。

内側というものは、ハートでも脳の中にも存在しない。

ハートも脳も、すでに外側。

宇宙のどこかにあるというものでもない。


いま    も     ここ    も    越えて、

わたしは 在る。