スーツケースを引いて空港の出口に向かう僕を見て、サバンナで餌を見つけた肉食動物のように、たくさんの人が寄ってくる。
僕は日本でライブをしにきた韓国アイドルでも、オリンピック帰りのスポーツ選手でもない。ただの日本の大学生だ。
そして寄ってたかってくる多数のおじさんたちは、僕のことを出待ちしているファンでは、残念ながら、ない。僕のような無知で純粋な外国人を狙う、野良タクの運転手だ。
下を向いて完全無視を貫いても良かったが、中途半端に屈強で、聞き取れない言語を話している男たちを置き去りにするほどの勇気はなかった。30kgのスーツケースは、走ってその場を通り過ぎることを妨げた。結果、僕はご丁寧に一人一人の野良タク運転手と目を合わせ、のらりくらりとやり過ごすはめになった。
「ホテルの場所、教えてよ」
「タクシーで送っていくよ」
「どこから来たんだよ、bro」
僕は頭を横に振りながら、彼らに伝える。
「歩いていくから大丈夫」
目的地の大学の寮までは7.5kmあり、道は雪で覆われていた。
出口の扉を開いて外に出ても、おじさんたちとの攻防は続いた。僕は適当に返事をしながら、頭では3ヶ月前の文化祭の勧誘を思い出していた。入り口で待機し、めぼしい人に声をかける。全く反応がなかったら、少しの心の痛みを抱えて次のターゲットを探しにいく。目を合わせてくれたら、多少しつこいくらい声をかけ続け、自分の出店まで持っていく。
必死の形相で声をかけてくるおじさんたちの目が、僕の目と重なる。体を突き刺すような寒さ、延々と話しかけられるしつこさに対する緊張感は薄れ、次第に愉快な気持ちになってくる。見知らぬ建物がこの間まで通っていた大学の校舎に変わり、針葉樹に覆われた雪道はイチョウで囲まれた近所の大通りになる。
気づいたら横からずっと話しかけてきた一人のおじさんが僕の目の前に立っており、僕は足を止めざるを得なくなる。おじさんはまっすぐ僕の目を見て言う。
「行き先はどこだ」
「タクシーは使わない。歩いていく。」
「住所を教えてくれ」
僕はあまりの強引さに笑うしかない。
「デートに行こう」
「明日バイトがあるから無理」
「じゃあ18時に改札前で」
この無謀なやりとりが残念ながら、ラインのチャットではなく現実に目の前で起こっている。あなたとデートに行きたくないことを、暗にではなく、これ以上ないほどに明白に示していたが、その意思は全く反映されていなかった。だが次第に、そこまで必死にかまってくる彼に対して、情のようなものが芽生えてきた。彼はもう、一人の野良タクの運転手ではなく、文化祭の勧誘をする僕たちで、駅前で寒い中ティッシュを配っているあの人で、不器用に想いを伝えてくる男だった。それは紛れもなく自分勝手で一方的だが、まっすぐに僕のことを見つめる彼の目の裏に無数の影が重なった瞬間、僕は都合のいい男になった。
彼の車の後部座席にスーツケースを押し込み、僕は誘導されるがままに助手席に座った。マップで目的地を表示する前に、彼は走り始めた。
「こちら〇〇番白のシボレー、いいスタートを切りました」
あまりの粗雑な運転で僕は座席にしがみつき、頭の中でレースの実況が始まる。そして彼は何事もないかのように、目的地を教えてくれと指示を出す。僕が大学の寮の場所を地図アプリで表示すると、彼はそこを知っていたようで、一度軽く頷くと、今度はお金を要求すると同時にタバコを差し出してきた。
僕はタバコを丁寧に断り、待ってましたと言わんばかりに財布から札を取り出す。
都合のいい男の、ささやかな抵抗
野良タクが望ましい選択ではないことは、どんだけ無知な僕でも事前に知っている。本当はウズベキスタン版のウーバーのような、タクシー配車アプリを使えば、格安でぼったくられることもなく目的地につけることも知っていた。しかし、電話番号を使った登録がうまくできず、どうしても他の交通手段を使うしかなかった。当初は時間がかかっても歩いて行こうと思ったが、想定外の雪道に阻まれた。
いっそあえて野良タクを使ってみようと決めたのは、空港でアプリのSMS認証が何回やってもできない時だった。多少ぼったくられても、最悪生きて目的地にたどりつければ良かった。何より、野良タクとわかっていながら野良タクに乗るという経験自体に、それ相応の価値があると思った。全てが安全でスムーズでは、面白みに欠ける。
「これくらいでどう?」
僕は財布から取り出した札を彼に手渡す。バイト先の店長からもらって、お守りがわりに財布に入れていた2000円札。ずっと大事にしまっていたが、差し出してしまえば、これほど使うのに適した場面はないように思えた。
僕はスマホの画面を見せながら丁寧にレートを説明した。彼は運転をしながらそれを聞き、徐に彼の友人たちに電話をし始め、そのレートの裏を取り始めた。額に満足したのか、2000円札を受け取った。
たとえ円からスムに両替ができるATMがあっても、2000円札が使えるとは思えなかった。僕は一つ息を大きくはき、スマホの地図アプリで、車がきちんと目的地の方向に向かっていることを確認した。
「財布を見せろ」
目的地が近づいた時、彼は静かに口を開いた。日本円は銀行では両替できないと言い、スムやドルを隠し持っていないのか、問い詰めてきた。僕は本当に円しか持っていないと何度も言ったが、彼は聞かなかった。目的地についても、そのやりとりは続いた。彼の目は、次第にこわばっていく。停車をすませた車内では、二人の声だけが響き、緊張感が高まる。僕はゆっくり息をして、膝に抱える手荷物のカバンから、財布を出し、開く。
そこには、一枚の1000円札しか入っていない。
彼は諦めたように首をすくめ、その1000円札を強引に抜き取ると、僕を車から出し、後部座席のスーツケースを取り出す。そしてズボンのポケットからチューイングガムを取り出すと、僕に一粒渡し、彼自身も一粒口の中に入れる。
「Welcome to Uzbekistan, bro!!」
最後は二人で熱い抱擁を交わし、別れる。僕は大学の門に向い、彼は車に戻る。空港で両替した5万円相当のスムの札束は、僕のリュックの中にある。