西方見聞録・・・Mike Bloomfield | 洋楽と脳の不思議ワールド

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庭の紅梅。向こうにダイダイの実が見える。

いい風情だと思わないか?












中学時代に中央アジア史を読んでから、西域ファンになった。

将来は漢学とペルシア語を学んで西域研究者になりたいと思ったくらいだ。

ただ、西域研究は、さあ~息 が長いぞ~と脅されたので短気なボクは諦めた。



高校の教科書で、「大蓁景教流行中国碑」を教わり、唐の時代に、キリスト教が中国まで伝播しているのを知った。





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景教は、キリスト教はキリスト教でも異端とされたネストリウス派キリスト教のことだ。

正統神学とされたローマ教会の神学解釈と、コンスタンチノープルの大主教ネストリウスの神学解釈がほんの少し違っていいたので431年のエフェソスの公会議で異端とされて彼は追放され、ネストリウス派のキリスト教はシリアからペルシャを経て、中央アジア、東アジアに広まった。

典礼はラテン語でもギリシャ語でもなくシリア語で行う。

この当時の西アジアから東アジアにかけては仏教、ゾロアスター教、マニ教など多数の宗教が混在していたが景教の勢いも盛んだったらしい。

中国には635年に正式な布教団が到着したが、中国人自身の改宗者は少なく、多くはウィグル人信徒だったようだ。(当時、西域はイラン系のソグド人勢力からトルコ系のウイグル族勢力に取って代わっていた。イスラム勢力がソグド人の故地ソグディアナに侵入したためで、四散したソグド人は周辺の民族に吸収され、以後は歴史から消えることになる。先日NHKTVでタジキスタンの山奥の村を取材していたが、村人の言葉とソグド人の単語がそっくりなので、四散したソグド人の末裔じゃないかと言っていた。)

13世紀にはモンゴル高原のナイマン族がこぞって景教に改宗し、そのナイマン族はチンギスハンによって統一された大モンゴル帝国に吸収されたので、モンゴル帝国でもネストリウス派キリスト教は親しいものとなっていた。

ここまでが前置きだ。



フビライ汗の時代、マルコポーロが中国にやってきた頃だが、2人のウイグル人キリスト教僧侶(景教徒)が、聖地イェルサレム目指して西へ旅したことは余り知られていない。

ボクもこの本で初めて知った。









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若い馬克斯(マルコス)と年長の掃馬(サウマ)だ。

2人はフビライからモンゴル帝国で絶対的な威力を持つ通行証(牌札=パイザ)を下賜され(といって2人がフビライに謁見できたわけでははない)、西方への旅についた。
フビライの弟、フラグがイスラム教の国、アッバス朝を滅ぼしてイラン・イラク地方にイル汗国を樹立したので、この地で歓待受ける。

ネストリウス派キリスト教の総本山もこの頃はイル汗国のバクダッドにあったのだ。
イル汗国のモンゴル宮廷と景教はウィンウィンの関係だったのだ。

シリアからイェルサレムにかけてはエジプトにあったイスラム国家マムルーク朝の支配下にあったので、敵対するイル汗国に身を寄せていたマルコスとサウマはイェルサレム訪問を断念するしかなかった。

ちょうど景教の最高指導者が没したので、若いマルコスが最高指導者(法主)に選ばれてしまった。

以後はヤフッバーラと呼ばれることになる。

イル汗国のモンゴル帝王は、イスラムのマムルーク朝を撃つために、西ヨーロッパとの提携を望み、年長者のサウマをローマに派遣することになる。

マルコスはローマ教会を訪ねただけでなく、フランス国王、そしてフランスにあった英国領のボルドーで、英国王にも謁見して帰国している。

結局イル汗国とヨーロッパの提携は上手くいかなかったが、サウマは天寿を全うした。


残されたマルコスは後年、イル汗国がイスラム化したため、苦難の道を歩むことになる。

マルコスの死後、イル汗国のネストリウス派キリスト教は壊滅的となり、今日では細々としか生き残っていないという。

1887年、イラクのクルディスタンで布教中のフランス人宣教師が、トルコ人の景教徒が読んでいるシリア語の写本に興味を持った。

ペルシャ語で書かれたサウマの物語にマルコスの伝記を追加したもので作者は不明。

88年、パリでフランス語に翻訳されて出版。

1928年にはロンドンでシリア語から英語に翻訳されて出版。

日本では早くも1932年邦訳出版され、2人の事跡が知られるようになったらしい。







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こんな本もあって、西アジアと東アジアの文明交流を時空を超えて語っているので(なにしろあっという間に2千年も3千年も時間が飛ぶのだ)、この辺の歴史に疎い人にはお勧めできないが、ある程度頭に入っている人にはすこぶる面白い。





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杉山二郎先生は、日本人がまだほとんど訪れたことのない時代に西アジアをフィールドワークしているので、イラク政府の要人とも顔見知りだったらしい。

せのせいで、日本でメソポタミア文明展を催す企画がもちあがったとき、日本側交渉団の一員として参加している。

イラク側は、貴重な文化財を飛行機で運ぶとなると、万が一墜落したら一切が失われてしまうと渋った。

そのとき同じ交渉団に加わっていた江上波夫先生が、飛行機ならそうかもしれないが、日本の船というのは特殊な仕掛けがしてあって、船が沈んでも積んでる荷物は全部浮かび上がるようになってるのだ~と珍説を力説したので、イラク側は納得したのだという。

さすがは大和王権騎馬民族説を唱えて学会をあっと言わせたとんでもない人物だなあ~と納得してしまったのだった。



この本によれば、アレキサンダー大王がインドから引き上げるとき、海上と陸上の2手に軍を分けたのだけど、ペルシャ湾沿いのバルチスタンを抜けるとき、この不毛の砂漠には「カラブラン」という毒の風が吹くことがあり、ために、軍団の多数が命を落としたというようなことが書いてある。
元朝の頃、西アジアを旅した「常徳」なる人物の「西使記」という書物に「カラブラン」の記述があるのだという。折にふれ、この本を探しているが、見つけられない。


少し面倒臭い話になったので、音楽は軽いものにしよう。