と、いうわけで
ここから先はあまりまとまりのない文章の羅列が続くと思います。が、読んでいただけたら幸いです。
冒頭のとおり、今月の半ばに父が他界しました。
数え年で78、今の時代で言えばまだ若い部類に入るのかも知れません。
俺の印象ではとても穏やかな人でした。
きっと聞けば沢山あったのでしょうが、思い出せるほどの強さで覚えているような怒られた記憶は、ほぼありません。
中学までやっていたサッカー。
母が応援に来ると、他の保護者が録っているビデオに声が入るくらいの爆音で声援をとばしていました。
かたや、父はと言うと
気づいたら見にきていて、ハーフタイムにベンチに戻るとドリンクの差し入れがある。
といったような感じでした。
体格が良く、お腹も出てたので小学校の頃は「まさるの父ちゃんにはパンチがきかない」と言ってじゃれつく奴もいました。
今にして思えば、人の親を平気で殴るとか、小学生って恐ろしいなぁと。
週末母が仕事の時の昼食は父が作る焼きそばかお好み焼きか、たこ焼きかうどん。
すき焼きも父の割り下の方が好みだった様に思います。多分甘めだったんでしょう。
ある程度火を使ってよくなったら、父の晩酌のアテをよく作りました。
厚揚げを半分に切り、間に切り目を入れてネギと生姜を詰めて焼く。好みのレンジが狭めでよくもう少し焼けと言われてやり直してたかな。
その時はめんどくさいと思ってたんだと思いますが、結果今は台所で自分のアテを作りながら晩酌してるくらいなので英才教育だったのかも知れません。
一緒に風呂に入るのが嫌でした。
背中を流すにしても子供の力では垢すりが生易しくてダメだったり、湯船に入ったら300数えるまで出られないとか。
遊園地に行った時も。
レールの上を走る足漕ぎ自転車みたいなのに乗る時、俺は母と乗りたかったのに体重のバランスで兄が母と、俺は父と乗ることになり。
小さなことではあるけど、あの頃の俺には途方もなく不公平に思えました。
そんな父が最初に倒れたのは俺が24歳の時の冬でした。
その時俺は劇団の公演に参加しており、シングルキャストだったため途中で抜けることもできずかなり遅れて帰省しました。
余談ですが、
その後、劇団を辞めるために帰京し座長に意思を伝えて、最後にこのオーディションだけ受けてこいと勧められたテーマパークのオーディションに合格して、そこから文字以上の勢いで人生が180°変わって加速するのですが、それはまた別の話。
その頃には、何かと感情的にぶつかってしまう母より、父と話す回数の方が多くなっていました。
とは言え、絶対数が少ないのでよく釘を刺されてはいましたが。
ただ、結果的にほぼ15年、実家とは疎遠でした。
子供のパンチを跳ね返していたお腹はなくなり、ゴツい掌とは裏腹に腕は細くなっていました。
最期に話した時
「今なら腕相撲勝てるかな」
と言ったら父は笑っていました。
俺との戦績は無敗のままでした。
最初に倒れた時の事と春先から始まったゆうえんちの仕事があったので、5月以降は舞台への出演を控えていました。
先日あった劇団のリーディングミュージカルも、事情を伝えて辞退しました。
結果として、ゆうえんちでお世話になっている先輩方の協力もあって父を見送る事ができました。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
時系列も合っていない、思い出すがままに書いた文章ですが、
俺の父は素晴らしい人です。
親からもらった丈夫な体と性格にうんざりする事もありますが、そのおかげでどこにいっても"酒井くんは真面目だ"と重宝してもらえています。
今の俺が俺の本質だと思う反面、それでも社会的にやっていけているのは本当にウチの両親の初期設定の巧みだと思っています。
上京以降、素を出し始めた俺は結構酷いものです。
それでも、今からでも目指せるなら、父の様に強く穏やかな人間でありたいと思います。
自分の中の区切りと思い書き始めた文章の区切りも付けられませんが、
とにかく今は相手がなにかはわからなくとも挑戦していかなければと思うのです。
"勝"
なので。