禅のことば

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禅のもろもろ
矢野昭潔

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辱なくもこの法を    ひとたび耳にふるる時
讃嘆随喜する人は    福を得ること限りなし


かたじけなくもこののりを
ひとたびみみにふるるとき
さんたんずいきするひとは
ふくをうることかぎりなし


ありがたいことにこの仏法を聞いて喜びに身を震わすような人は限りない幸福が得られます。

仏法を聞いた人は誰でも、ではないところが白隠さんとても正直です。

人の話を聞いて「讃嘆随喜する」人はそう多くありません。たいていは、「あ、そうなんだ」とか「うん、いろんな考え方があるからね。人それぞれだからそれでいいと思うよ」とかいう反応でしょう。讃嘆随喜するのは仏法を聞く前から相当に仏縁が高い人ではないでしょうか。ただし、これはその「人」の問題ではなくて、そのときの人の「状態」の問題ですから、誰でも讃嘆随喜することはあり得ます。

 


 

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一坐の功をなす人も    積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき    浄土即ち遠からず


いちざのこうをなすひとも
つみしむりょうのつみほろぶ
あくしゅいづくにありぬべき
じょうどすなわちとおからず


一坐の功をなす人も    積みし無量の罪ほろぶ

たとえたった一度坐禅をするだけでも、これまで積み上げてきた計り知れないほどの罪も消えてなくなります。


悪趣いづくにありぬべき    浄土即ち遠からず

「悪行? そんなものがどこにあるのだ」という状態になります。浄土は遠くありません。

ここでも前と同じく、距離を示すことばとして遠くないという表現がされていますが遠くないとか近いとかいうことではありません。ここが浄土なのです。

 

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それ摩訶衍の禅定は    称嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜    念仏懺悔修行等
その品多き諸善行    皆この中に帰するなり


それまかえんのぜんじょうは
しょうたんするにあまりあり
ふせやじかいのしょはらみつ
ねんぶつさんげしゅぎょうとう
そのしなおおきしょぜんぎょう
みなこのなかにきするなり

それ摩訶衍の禅定は

「摩訶衍」は大乗ということであり、この句は大乗仏教が伝える禅は、という意味です。摩訶衍(まかえん)はサンスクリット語の発音をそのまま漢字で表したものですので使われている字に意味はありません。

称嘆するに余りあり

どんなに称賛しても称賛しすぎることはありません。


布施や持戒の諸波羅蜜    念仏懺悔修行等
その品多き諸善行    皆この中に帰するなり


仏教で功徳ありとされている善行にはいろいろあります。お布施をすることや戒律を守ることなどの実践。念仏、懺悔、修行することなど。

ここで「懺悔」ですが「さんげ」と読みます。「ざんげ」とは違います。「ざんげ」ですと背筋を伸ばした謹厳実直な宗教者の前にひざまずいて過去の悪行を告白するというイメージですが仏教の「さんげ」は貪瞋痴の三毒に囚われない生き方をしてゆきますという宣言です。

こういったいろいろなものがあるけれども、結局のところ、詰まるところは禅であり、すべて禅に含まれている、という白隠さんのお示しです。




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六趣輪廻の因縁は    己れが愚癡の闇路なり
闇路に闇路を踏み添えて    いつか生死を離るべき


ろくしゅりんねのいんねんは
おのれがぐちのやみじなり
やみじにやみじをふみそえて
いつかしょうじをはなるべき

六趣は地獄界から天上界までの六つの世界で、人々はそのときそのときでこれら六つの世界のどこにいるかが変化しながら生きているとされています。六趣輪廻の因縁はとは、「生きていればいろんな状態・状況や出来事が生まれ、移り変わり、消えてゆき、それに悩み苦しんでいるけれども」っていうことです。これらは、己れが愚癡の闇路なりと白隠さんは言います。

癡は痴です。愚痴と2つの文字が並んでいると、「自分の人生がうまくゆかないのは、あの人と、この人と、その人と、それから、、、」っていうことのようになりますが、そうではなくて愚と痴です。愚かでバカだからっていうことです。何に対して愚かでバカなのかっていうと自分が仏であることが分かっていない愚かなバカっていうことです。白隠さんが口が悪いわけじゃなくて仏教では貪瞋痴(とんじんち)が三大害毒とされています。仏教では、よく知られている概念については全部言わずともその一部を取り上げることで「ああ、あのことね」と分かるのが前提なので、白隠さんは痴しか言っていませんが貪・瞋・痴を指すと考えてよいものです。貪・瞋・痴とは、むさぼる・怒りや憎しみや妬みを持つ・真実を理解していない、です。己れが愚癡の闇路なりなのですから害毒にあたりながら六つの世界をぐるぐる廻って生きてゆくことへの悩みや苦しみはすべて自己責任、自分が作り出しているものだ、ということです。意識的ではなくても。

闇路に闇路を踏み添えて

よく分かっていない状態でじたばたするのは、濁り水を澄ませようとして手でかき回しているようなものです。よかれと思ってやっていること、あるいはどうしたらいいか分からなくてとにかくやってみていることがさらに濁りを増します。

いつか生死を離るべき

そんなことをやっていて一体いつになったら生き死にという人生最大の課題を解決できるんですか。

 

 

 

 

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衆生近きを知らずして    遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中にいて    渇を叫ぶがごときなり
長者の家の子となりて    貧里に迷うに異ならず


しゅじょうちかきをしらずして
とおくもとむるはかなさよ
たとえばみずのなかにいて
かつをさけぶがごときなり
ちょうじゃのいえのことなりて
ひんりにまようにことならず

近いということを知らずに遠くを求める、と言っていますが、実際には自分が仏なのだから近いもなにも、そこに距離というものはありません。同一なんですから。ただ分かりやすい対比としてこういう言い方がされているだけです。

そしてその後のさらに2つの例。白隠さんは何度も何度も同じことを繰り返して言います。これは別に白隠さんが粘着質だからっていうことではないでしょう。水の中にいながら水を求める、あるいは使えるお金があるのにお金を求めてさまよう、といった人々の様子に胸が痛んでたまらなかったのでしょう。「私が何と思われようとかまわない。自分というものに気づいてもらえるまで何百万回でも言う」っていうことではないでしょうか。

 

 

 

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衆生本来仏なり        水と氷の如くにて
水を離れて氷なく    衆生の外に仏なし


しゅじょうほんらいほとけなり
みずとこおりのごとくにて
みずをはなれてこおりなく
しゅじょうのほかにほとけなし


白隠さんがこの坐禅和讃の全体を通して言っていることはただ一つ、「衆生本来仏なり」これだけです。これ以外の文は説明、補足、念押し、方法論にすぎません。白隠さんが噛んで含めて口に入れてくれているということです。

衆生とは生けとし生きるもののすべてを指す言葉です。ただし、「生き物すべては仏である」と解釈するのでは、誰からも間違いとは言われないですけども、白隠さんがわざわざ一文をしたためるほどの意義はありません。

仏教の中でも、禅では抽象概念を使いません。生き物すべてという、まるで生物学とか統計学のような広い観念は持ちださないのです。禅ではすべて具体的事実に即して言います。極限まで具体化されているため、一般化、抽象化の要素を含めて考えることに慣れてしまった頭には突飛に聞こえることも多々あります。禅問答がわからないというのはまさにそのためです。

例えば、禅の語録である「無門関(むもんかん)」と「碧巌録(へきがんろく)」に同じ次の話が載っています。

洞山和尚(大悟している古代中国の師匠)に修行僧が聞きました。
「仏って何ですか」
答えは「麻三斤」。

斤は重量単位です。「仏とは三斤の重さの麻だよ」と。

また、こんな話もあります。同じく無門関から。

雲門和尚(大悟している古代中国の師匠)に修行僧が聞きました。
「仏って何ですか」
答えは「乾屎橛」。

乾屎橛(かんしけつ)とはトイレットペーパーのようにして使われていた糞かき箆のことです。

仏とはクソカキベラである。この一言で仏というものに抱く抽象的な想いは完膚なきまでに奪われます。

で、衆生に戻ります。ここで言っている衆生とはこの坐禅和讃を耳で聞いたり目で読んだりしている人、つまりあなたです。

「あなたは本来仏である」っていうことです。「本来」にも注意は必要です。本来、というと、現代日本語では、今のところはそうではないが本当は、というニュアンスがあります。いたずら息子の頭を母親がやさしく撫でながら「あなたは本当はいい子なのよ」と語りかけるおもむきを感じがちですけども、ここでの本来はそれとは違います。本源として、根源としてという意味です。

衆生本来仏なり、とは、自分がどうあろうが、どんな人間になりたかろうが、どんな思いを持っていようが、あなたは仏であるという意味です。


水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

この文は前記を譬えを使って説明しただけの文です。

禅では、余計なことを付け加えて解釈しない、というのも大切な態度であるとされています。

「うん、人間の様相はいろいろ変わる」、とか、「水であればどんな器にも合うが氷の状態のときはそうはいかない。しかし同じものである。」などなどの解釈は一切余計なことです。ここの文は、譬えを借りて、あなたは仏であると言っているだけなのです。


 

 

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