それはまるで、映画の1シーンをスローモーションで
見ているようだった。


自分が飛ばされていながら、ゆっくりと飛んで落ちていく、
そのさまを見ているような感覚。


ドサッ、と、私は音を立てて、部屋の隅へ飛んだ。


痛みは無かった。


ただ、頬がズンズンする、鈍い感じだけがあった。


抑えた右手の下の皮膚が見る見る腫れあがってくるのが
自分でもわかった。


母が、すぐに氷を包んだタオルを持ってくる。


夫は食卓の椅子に座り、憮然としていた。


夫も私も押し黙ったままだった。


もう、これ以上口を開いたところで、
またすれ違いの会話の繰り返しになるか、
感情的になって、更なる暴力に発展する
だけなのだ。


黙っている間中、「私達はもう、終わりなんだ」という
言葉だけが私の心を占めていた。


「もう終わりなんだ。」
「私と夫は、もう元には戻れないんだ」


まるで、まじないのように、
その言葉だけが私の頭を占領していた。



「みんな女房公認なんだからな。」


あの言葉を聞いた日から、この時が来るのを、どこかで
予想していたのかもしれない。


本当に、何かのストーリィ通りに事が運んでいるような、
そんな気がしてならなかった。


気が付くと、母に連れられて娘が階段を降りてくる。


「こっちへおいで」


夫が言うと、娘は素直に従って、夫の膝に抱かれた。


娘は夫に抱かれながら私の顔を見つめ、夫の方を
振り返ると、ゆっくりとこう言った。


「暴力はいけないんだよ。」


夫はニコニコして、「ああ、そうだよね」なんて言っている。


娘は足をブラブラさせ、夫の腕を掴みながらこちらを
見ている。


「いったい、どういう気持ちで夫に抱っこされてるんだ?」


ぶざまな母親の姿を見て、平然と――そのように
その時の私には映った――夫に抱かれている娘に、
私は違和感を覚えた。


だが、今思えば、この異常な状況の中で、まだ6歳の少女が
取れた、精一杯の行動だったのかもしれない。


母を傷つけた父の膝に抱かれながら、その行為を諭す。


彼女にとっては、私も夫も、同じくらい、自分にとって大切で、
必要な人間であった筈なのだから。


どちらも失いたくはなかったに違いないのだ。


もう、夫と言い合う気も、誰かと話す気力もなかった。


ただただ、哀しさと空しさだけが去来していた。


私はボクシングで打たれた選手の如く「お岩さん状態」
になってしまった顔の半分を押さえたまま、黙って2階へ上がっ
ていった。


下から、夫が母に「いや、ほんとに殴る気は無かったんだが・・」
などと弁解しているのが聞こえたが、最早、誰もその言葉に
耳を傾ける者はいない。


2階に上がると、息子は布団をかぶったままの状態で寝ていた。


果敢に修羅場にやってきた妹の行動力とは対照的に、
息子は夫が怒鳴って帰ってきてから、私が打たれるまで、
ずうっと起きて、事のすべてを2階で聞いていたという。


「吐きそうだった」


12歳の少年の心に与えた傷の深さがどれほどのものか、
そのときの私には、考えられる余裕もなかった。



翌朝。鏡を見ると、私の顔の腫れは一層ひどいものとなっていた。

TVのボクシング中継で良く見る、ぶたれた選手のあれだった。


何をどうしよう、とはっきり決めたわけでもなかったが、
私の中で、この顔は証拠として残したほうがいいな、と
ぼんやり考えていた。


「夫にゆうべ、殴られたんです。」


以前から事情を話していた女性の上司に電話でそう告げると、
彼女は絶句した。


何とか修復を臨んでいた上司だったが、暴力があったと
聞いては、その望みも難しくなってしまったと思ったのであろう。


「この状態だと、当分、外は無理です」


営業の仕事なのだ。ただの怪我で突き通せるような
顔面の状態ではなかった。


夫が起きてくる前に私は外へ出た。
今、夫と話すことなど、何も無かった。


外に出ると、行き交う人が、驚いたように、私の顔をじっと見て行く。


腫れた眼の周りは眼帯で隠し、頬はガーゼを絆創膏で貼っている。
要するに、顔の右半分が覆われている状態なのだ。


しかし、どんなに包帯で隠しても、顔面右側が隆起しているのは
ひと目でわかる。腫れが引かない限り、隠すことはできないのだ。


普通の怪我とは思えない、その異様さが眼を引いたのだろう。
私はうつむくようにして、公衆電話BOXへ急いだ。


事情をよく知る友人に電話をかけるためである。



「殴られたのよ」


彼女はやはり、病院へ行くこと、必ず証拠として
写真を残しておく事を私に勧めた。


家に戻り、母に写真を撮ってもらうと、私はその足で
病院へ向かった。


子供たちの学校は、翌日からが新学期だった。


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「おいっ!!起きろっ!!」
「ぶっころすぞぉっ、てめえーーーっ!!!」


そう言いながら、夫が二階に上がって来る。

子供たちも寝ているここへ来るというのか。


「起きろっ!起きてこい!」「この気違い女!!」
「ぶんなぐってやるからな!」


もう、夫には、私をぶっ殺す以外のことには
頭が働かなくなっているらしい。


「あたしが行くよ。」

そう言うと、母は階段を降りていった。


「あ、お母さん・・」


夫は、今日、母が娘を連れて戻って来ている
事を知らなかったのだ。もう、店の事以外の会話など
していないからである。


突然の母の登場に、さすがに夫は
たじろいで、少し、平静さを取り戻したかに
見えた。


「お母さん、あいつは、俺が浮気してるって言うんですよ。」
「そんなこと、あるわけないのに。」


もう、それ以上、夫の言葉を聞いていられなかった。

私は階段を下りていった。


母の前で向き合う、夫と私。


夫と正面切って向き合うときが、こうして
いがみあう時だけ、なんて、なんという
哀しい関係だろう。


私の顔を睨みつけるようにして見る夫。

般若の面、そのままだった。


そして、私はその何倍も凄い形相で夫を睨み付けたに
違いない。


母が居なければ、ここで思いきり、私を殴り倒したい
ところだっただろう。


母は夫の話には応えずに、ただ黙っていた。


母にしたところで、この状況で、今さら、この夫の言い訳に
相槌を打つ気にはなれなかったのだろう。


こんな大声を出して、子供たちはどうしているだろう。


そのことが気になっていたが、疑惑大王みたいな事を
毎日しておいて、平気でそんな言い方をする夫に、私は、
心底頭にきてしまった。


私 「何を言ってるのよ!いい加減にしてよ!!」
  「じゃあ聞くけど、修行が終わった次の日、人手が足りないっ
   て言って出て行ったけど、店に居なかったじゃない!」


夫 「なにぃー?俺は店に行ったぞ!」


私 「店長が熱で休みって?あのね、あたし、あの日、
   3回も覗いたけど、店長は元気そうに働いてたわよっ!」


夫 「だから、店長は○○じゃない、△△だって言っただろっ!!」


私 「はあ?△△だって元気に働いてたのを、この目でちゃんと見てますっ!」


夫 「だから、あいつはジンマシンなんだっ!!だから俺は8時に帰れと言ったんだ!」


私 「??」「ジンマシン?熱って言ってたじゃない、前は」


夫 「だから、ジンマシンで熱が出たっていってんだろうがっ!」


私 「でも、ジンマシンだなんてこと、今初めて聞いた!」


娘の入学式前日にやりあった同じ話を、また蒸し返しているのである。

だが、夫の答えが変わっているという事を、当の本人が気づいていないという信じ難い状況。


夫 「厨房にいたんだっ!あそこは見えない筈だ!」

私 「こないだはホールって言ってた。何で言う事が違うのよっ!」

夫 「ホールもやったんだ!」


「いい加減にしなさいよっ!!」

「言ってることがまるで辻褄が合ってないじゃないの!!」


「何かを隠そうとするから、毎回言う事が変わってくるんじゃない!!」

「ほんとのことを言いなさいよ!」


詰め寄ってなじる私を、夫は突き飛ばした。


よろける私。


「俺は何もやっちゃいないんだ。あ?お前がそうやって疑って
馬鹿な事をするから、俺が切れるっていうんだ」


夫の眼が据わっている。

立ち上がって、私の方へ向かって来ようとした
その時、母が、夫を止めようと、間に入ってきた。


「ちょっと、やめなさいっ!!」


だが、夫には、今、そこにいるのが、70代半ばの私の母である
という認識ができる理性は、すでに無くなっていたのだ。


制止しようと手を伸ばしてきた母を、夫は突き飛ばした。


ドシン、と音を立てて倒れる母。


「おばあちゃん!!」


それを見て、私は突進した。

「なにするのよぉっ!」


夫に掴みかかろうとした瞬間、

私の顔めがけて、夫のジャブが入った。


ふわり、と、私の身体が飛んだ。  

二階へ上がったものの、それで恐怖から逃れられた
わけでは無かった。


これから恐ろしいことが迫ってくる。

そんな予感に、身体の震えが止まらない。


私は、既に寝息を立てて寝ている母を、思わず起こした。


「おばあちゃん、おばあちゃん!」

「○○(夫の名)が、もの凄く怒って帰ってくる、
どうしよう!!」


「え?なんだって?」


尋常でない私の声に、母はすぐに目を覚まし、
起き上がった。


私は、急いで経過を説明した。


こうやってる間にも、夫が帰ってきてしまう。



「大丈夫だよ、私が居るから。」


酔っ払いであろうと、ちょっとコワい兄さんたちであろうと、
平気で対処してきた肝っ玉な母がそう言ってくれても、
私は震えが止まらない。


「ガシャ」



帰ってきた!



ドアの音ではない。


12年も、ほぼ毎日聞き続けた、駐車場の排水溝を
またぐ音だ。



12世帯あるこの駐車場に、深夜に帰ってくる車は
そう多くない。


間違いなく夫の車だろう。


一旦、右へ曲がり、そのまま、家の目の前に
ある駐車スペースへバックで入ってくる。


「ゴォーーー」


車がバックしてくる音。

「キンコン、キンコン」


家に近づく。



駐車場側に面した2階のこの部屋では、
夏場で窓を開けていれば、深夜でも
あったし、そのくらいの音は全部拾えた。


エンジンの音が止まる。


続いて、

「キキッ」


サイドブレーキを引いた音である。



この一連の流れを、私は息をつめ、全身ダンボ状態で
聞いていた。



このとき、突然、私の耳に入って来たもの。


それは、サイドブレーキを引き、鍵を抜きながら、
何かをつぶやいている、夫の声だった。


さっきの電話の勢いのまま、怒鳴っている。



ドアを開け、車を降りて、歩き出しながら、
夫は、こう叫んでいた。



「ぶっ殺してやるからなっ!」

「見てろっ!!」




小さい声ではない。普通の音量で、そう呟いている。



私の恐怖は頂点に達した。

家まで、もう数歩である。



「いいかっ!ぶっ殺してやるぞ!!」



静かな敷地の中に、夫のよく通る、ドスの利いた声が
響き渡っていた。



隣家もすぐ向かいの家も、皆、この駐車場に
面した側に2階の窓があった。


窓を開けていなくとも、夫の怒声は聞かれて
いた事だろう。



家の鍵穴に鍵を差し込む音。

「ガチャ」


「ガチャ」

補助錠が開けられる。


私は、もう心臓が止まりそうだった。


ドアを閉める前に、もう夫は怒声を
上げていた。


「おいっ!!起きろっ!!」

「ぶっころすぞぉっ、てめえーーーっ!!!」


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