その後、今夜僕が榊邸に来てから訪れる何度目かの賑わいを尻目に

 

誰にも気付かれないようにこっそりと榊邸を後にした。

 

そして榊邸からそう遠くない位置から響いてくる「鳴り物(祭りばやし)」に合わせて大合唱される「そぅりゃあ!」の掛け声で、だんじりがすぐ近くを通っている事を知った。

 

何だか我に返るような空しさを感じた僕は幹線道路まで出ると、タクシーを拾って深井駅へ向かった。

 

こういう時は飲みなおすのが一番だ。深井駅に着いたらロータリーに入る前にタクシーを降りて雑居ビルの階段を上がりショットバー「REN」の扉を開ける。

 

因みにこのお話はエピソード1とエピソード2の間ぐらいの時代で、まさに裏エピソードとも言える。(令和412月現在でエピソード2が発表前なので読んでくれる方には申し訳ないですが)

 

「シュンちゃん!いらっしゃい……何?どうしたの?それ……」


「え?どれですか?」

 

「いや……エプロン……」

 

「あ!」

 

うっかりエプロンを着けたまま来てしまった。

 

「あぁ、なんだよ!格好悪いなぁ!」

 

ファッションに相当強い拘りがあった当時の僕は、慌ててエプロンを脱ぎ

 

それを引いた椅子の背もたれにかけて、そのまま席に着いた。

 

そして「ベッキー、ロックで」とマスターのレンさんに伝えると同時に煙草に火を着けた。

 

「今日、鳳凰荘でだんじりでしょ?あるお宅に給仕のお手伝いに行ってたんです」

 

「あぁ、それでエプロンだったんだ?今日は鳳凰荘がだんじりかぁ。深井のだんじりは先週だったから、一週後ならそうなるね。はい、レベッカお待たせ!……それで、忙しかったの?」

 

「これが、凄く忙しくて。ひっきりなしにお客さんが来るんです。法被の人も普通の人も」

 

「拾い和室の大きなテーブルにご馳走が並んでて、みたいな感じ?」

 

「そう!それです!まるで県民ショーで出て来る田舎のお祭り、その近所の家みたいでしたよ」

 

「うちの本家もそんなん感じだったような気がするなぁ。大阪って言っても、堺は田舎って事だよ」

 

「地元の有力者のお宅ってな感じで。完全アウェーというか、僕なんか『……誰これ?』的な感じでしたけど。凄い経験をさせてもらいましたね。まぁ、明日も朝から手伝いに行きますけど」

 

 ただでさえ本当にやって来て、宣言通りに働いて。それも二日も続けて手伝いに来られたら、さぞ驚かれる事だろう。想像しただけでワクワクする。

 

ところが、である。翌朝は目覚めから腹を下してトイレから離れられなくなった。こういう時、僕は「やめておく」という選択肢を持ち合わせていない。一度「こう」と決めたら徹頭徹尾、完遂していく事が抗いようのない性質だった。

 

おまけに昨日買ったばかりのエプロンも見当たらない。ショットバー「REN」に置き忘れてきたようだった。

 

僕は出るものが出尽くした頃、正露丸を飲み込み改めて覚悟を決めた。

 

そして身支度を整えタクシーに乗り、今日も榊邸へと向かう。この後15分もすると到着してしまう。その間にどうやって酒を躱しながら、飲んでいる雰囲気を出すかについて考えてはみたものの、恐らくなるようにしかならない。

 

やがて榊邸に着いた僕は「おはようございます!」と元気良く挨拶をしながら玄関に入った。

 

そこには奥さんとご主人に、もう一人強面の老人が鎮座していた。

 

「シュンちゃん!おはようさんです!昨日はありがとうね!もぅ、突然居なくなって」

 

「えぇ、大体片付けも済みましたし、今朝も寄せてもらうつもりだったんで早めに失礼しました」

 

「洋(よう)ちゃん、ほら、昨日手伝ってくれてたシュンちゃんよ!」

 

「……おぅ!昨日エプロンまで着けて手伝ってくれてた子ぉか?何や!ワシが戻ったら一緒に飲もうと思っとったのに!戻って来たらおらへんやないか!」

 

顔は笑顔だが強烈に声がデカい。灰色の角刈りが発するそれは、常人の倍程の音量がある。

 

(どういう事だ?あんなに泥酔している老人が僕の事など覚えているはずがないはずだけど…)

 

僕は畳の座布団のないところに正座して「昨晩は沢山ご馳走になりまして、ご挨拶もなしに失礼して申し訳ございませんでした!改めまして、クウカイ・シュンと申します」

 

「おぅ、そんなとこ座らんとこっち来て座れ。おい真理!ビール持って来い」

 

(いきなり来たか……)

 

そして奥さんが瓶ビールを持って来た。ご主人と強面の老人はすでに飲み始めていたらしくグラスが置かれていた。その瓶をご主人が受け取り自分と強面の老人に先に注ぐと、こちらに瓶先を向けた。

 

僕はグラスを両手で持ち「ありがとうございます」と言い

 

グラスにビールが注がれたら「頂きます」と言い、少しグラスを持ち上げた。この時、乾杯のグラスがこちらに来ない。飲んで良い合図だ。そして一息にグラスの半分程飲んで、テーブルにグラスを置いた。先に煙草に火をつけてやり過ごそう。その間に二人の老人は早すぎず、遅すぎずビールを飲みすすめていく。

 

僕がゆっくりと煙草を吹かしていると又、ご主人の持つ瓶の先がこちらを向いた。僕は慌てて煙草を灰皿に置くと残りのビールを飲み干して次を注いでもらった。

 

「ありがとうございます」(どこまでこれ、続くのかな……)どんな時でも穏やかな笑顔を忘れてはいけない。やり過ごすんだ。気を使わせたら負けだ。

 

「最近は、女の子でも我が(『わが』大阪でも主に河内地方や泉州地方で一人称を示す方言)で使ぉた食器一つ下げもせぇへん。ところが君はホンマよう働いてくれたのぅ。ほんで、昨日は食ぅて飲むくらいはしっかりしてくれたんか?」

 

「あ、はい。沢山頂きました」

 

「ん……ほぅか(そうか)。で、今朝はなんで(酒が)すすまへんねや?どないかしたんか?」

 

あっさりとバレてしまった。

 

「えぇ、すみません。実は今朝から腹を下しまして……」

 

「なんや!?下痢かいな!早ぅ言わんかいな。おい真理!熱燗持って来たれ!

 

(いやいや、どういう意味?普通白湯とかでしょ?)

 

「一番安いんでええぞ!あんなもん温(ぬく)めてしもたら何でも一緒やからな」

 

(もしもし?僕、下痢なんですけど?そんなんで本当に大丈夫ですか?)

 

「冷えとるさかい、温めたらええんや。ワシも下痢したらいつも熱燗や」

 

(そんなもん、普通は余計悪くなると思いますよ?お爺さんだけ特別なんじゃないですかね?)

 

「普段はそんなもん飲みとぉないやろ?日本酒なんぞ普通に冷(ひや)が一番や。まぁ、最近は殆ど芋焼酎ばっかりになってしもたけどのぅ」

 

「はい…」

 

「なんや?焼酎がええんか?」

 

「あ、いえ、大丈夫です」

 

(というか、アルコールを飲みたくないんですってば)

 

これはたまらない。もう、飲んでいるフリができない。

 

十月が近いとはいえ、気温は高い。今時の大阪は十月の半ば程まで真夏日が続く。こんな状況で熱燗……。今からくるそれは僕の為に特別にご用意頂くもので、しかもわざわざ温めて頂いた日本酒を冷める前に飲まないと申し訳ないと僕は思った。

 

この時点で僕はすでに「終わった」と内心思っていたが、本当に「終わる」のはこの直後だ。