夕方五時。深井駅付近のバーはまだ何処も開いていない。
『カラー』は夜八時から。『REN』は九時から。
とてもじゃないけれど、今夜はそんな時間まで気持ちが持ちそうになかった。兎に角誰かに話を聞いて貰いながら酒を煽りたかった。
以前『カラー』のゴウさんから紹介してもらったビストロ『レニエ』の目の前に車を置いた。このお店はホテル出身のシェフが最高の料理を提供してくれる。深井駅から歩きなら十五分はかかるこの住宅地の中の、僅か数件の銀座通り。中華料理屋・お好み焼き屋・立ち飲み屋・喫茶店の並びにあるこのビストロで僕は食べ飲みし始めた。
「こんな一日、いや半日……もない。ほんの数時間でした…。うん~美味い。こんな味がこの世にあるとは」
私はシェフの戸塚さんに愚痴をこぼしながら、この「鴨肉のロースト・コーヒーソース」とやらを頬張り、ウイスキーの水割りで流し込んだ。
「ハハハ、そうか。それは喜びも半減するねぇ。だけど、その様子だと次に又すぐ会えるよ。彼女も罪の意識があるだろうし。事情が事情なだけに男なら優しく受け止めてあげないといけないよね」
お婆さんが倒れた事も、お爺さんが休日だった詩絵ちゃんに連絡してきたのも仕方がない。それよりも、僕はこんなタイミングの悪さ、自分の運のなさを呪いながら酒を飲み干した。
「ふぅ……。戸塚さん、水割りもう一杯。後フードも何か面白いのありますか?」
「そうだねぇ、今日はイベリコの生ハムがあるよ。大概の生ハムはパルマだからイベリコは珍しいんだよ。これと新玉ねぎのマリネなんか作ろうか?それかオレンジソースで……」
「任せます!その場で何でも作って貰えるんすね!」
「それがビストロの醍醐味さ!ホテルの厨房に居る時はこんな自由は利かなかったから僕も楽しいよ。ほら、ちょっと出来るまでこれつまんでおいて」
そう言って生ハムを細かく切ったものを出してくれた。戸塚さんは五十歳程ぐらいで髪も眉毛もグレーで恰幅の良い、見るからに「シェフ」と言った風格のある方だった。
「ありがとうございます。うん……この塩加減が美味いですね。ちょいと黒胡椒も下さい。…ありがとうございます!うん、美味い~。……彼女が気にはなるけれど、今はこちらから連絡も出来ませんしね。待つしかないですよね」
「沢山経験出来れば良いよねぇ。色んな人が居るから、色んな事をね。僕がホテルに居る時なんかは、どちらかと言うとプロの女の子達との話の方が多かったけどね。仕事で男一人の泊りだと寂しいもんだから誰か相手してくれる女の子が居たらと思う人が結構多いんだ。それで地元のホテトル嬢(現在のホテヘル嬢に相当する派遣型風俗スタッフ)なんかと仲良くなってね。お客様にこっそり女の子を紹介したりとかしてね」
「ええ!そんな、戸塚さんがお勤めだったのって有名なホテルだったでしょう?そんな事…」
「だからそこは上手に、こっそり教えるんだよ!夕方頃にまずバーテンダーがお客様からそういう相談を受けるだろ?
『こんな時だから一晩付き合ってくれる女の子とか居ないかな?』って。
そうしたらバーテンダーから僕に連絡が来るんだよ。それでお客様と電話を代わってもらって『厨房担当です。はい、お退屈とお伺い致しまして。私でお役に立てるかは分かりませんが、私の友人をご紹介出来るかもしれません。お好みとか、今からお伺い致しますね。大体は好みに近い子を探してみますから。スリムですか?ノー?ならグラマーですか?とういうかぽっちゃり?畏まりました。それでは一旦お電話をお切り下さいませ。今から心当たりを当たってそちらへすぐ折り返しお電話差し上げますので。はい、失礼致します』
それで女の子に連絡していけそうな時間を確認してもう一度バーに電話する。
『お待たせ致しました。私の友人でアケミちゃんという子が居まして。彼女をご紹介させて頂こうかと思うのですが。ぽっちゃり目ですが綺麗な子でね。彼女はお酒が大好きなんですよ。ご馳走して頂けるならお伺いしても良いと申しておりまして。はい、それで宜しい?畏まりました。宜しければ十九時半にレストランで二名様御予約賜りますが、ご都合は如何でしょうか?宜しいですか?そこにアケミちゃんが参りますからご一緒にお食事などして下さい。ただし顔見てチェンジとかそういうのは無しでお願いしますね。あくまで風俗などではなくて、私の個人的な友人をご紹介させて頂くだけですので。退屈な男性と口説かれ上手な女の子の一夜の恋愛が実ると素敵じゃないですか?ハハハ!ええ、畏まりました。いえいえ、何を仰います。出来る限りのサービスをさせて頂くのがホテルマンですから。それではお待ちしておりますので、お気をつけてご来店下さいませ』
…てな感じでねぇ。ワッハッハ!」
「へぇ、女の子達もまずはホテルでの食事にありつける訳ですね。しかも男が気にいらなきゃ帰れば良いし」
「そうなんだよ、大抵はリッチなお客様だから普段より多くお金も取れるし言う事なしだって言ってね。女の子から『日頃のお礼に』なんて飲みに連れて行ってもらったりしたもんさ。で、お互いに酒も入ると良い雰囲気になっちゃって。体まで提供してもらっちゃったりね!」
「へぇ、戸塚さん、やり手ですね!」
「その時代はまだ給料も低かったし、まともに休日もないような毎日だったから決まった彼女なんか作れなくて。いやぁ、本当にお世話になったもんさ!はい、イベリコの生ハムと新玉ねぎのマリネお待ちどうさま!」