麗しの皆さま
ごきげんよう
朝から実家へ。
ご先祖さまのお供えの果物と
お花を買いに行き
まずは実家に行く前に
小さい頃からの
馴染み深いお不動さまに
お詣りをしてきました。
父は失明の心配があるので
眼病平癒のご利益があると言われる
お不動さまのお水を汲んで
実家に持って行こうと思いまして。
ところが
お水を入れる容器を忘れちゃって。
いつも大ボケばかりのわたし。
お水の代わりに
眼病平癒の御守りを購入しました。
父に御守りを渡すと
以前にわたしがあげた
同じ眼病平癒の御守りを差し出して。
クタクタになるまで
身に着けてくれていたのです。
ありがとう。
元々耳が遠い母は
ますます耳が遠くなって。
これまで聴力は問題なかった父も
耳が遠くなってきたようです。
何気ない会話ですらも
意思疎通しにくくなっている
というのに
ふだんは夫婦二人で
会話が成立しているのだろうか?
前回実家に帰って
まだ日が浅いというのに
どんどん老いているように感じて
老いは自然なことではあるけれど
誰しもいつかは天に還るのだけど
老いてゆく両親の姿を
真近に見ているのは
なんとも言えない気持ちになります。
義父母もすっかり耳が遠くなって
電話で話しづらい。
わたしは義父母とは
同居はしなくていい状況ですが
ずっと核家族で育ってきて
人の生死を身近に感じたことが
あまりないわたしには
物理的には厳しいけれども
本当は同居か近くに住むのが
理想なのかもしれない。
それは
甘ちゃんのわたしのためにも
息子のためにも。
先日 ブロ友さんの記事の
ネイティブアメリカンの言葉を
目にした時もそんなことを感じた。
お年寄りと子供を
はなしてはいけない。
彼らを引き離すことは
過去と未来を断つことと同じだ。
数年前の一時期
精神疾患になった母と
眼の手術をした父を
我が家に引き取った。
夜中の2時に
うんちをもらしたという母を
お風呂に入らせ
うんちまみれのパジャマを着替えさせ
わたしの服にもうんちがついて
トイレの壁もうんちだらけで。
自力では立ちあがることも
口を開くこともできなくなった
母の口を開けて
ご飯を食べさせて
ちっぽけな責任感で引き受けたものの
エンパスしてしまうし
(死にたいとわたしが感じてしまう)
心身的にしんどさも
感じたものでしたが
気づきと学びをもたらしてくれた
経験でもありました。
(母は医師のすすめもあって
しばらく入院させその後よくなりました。)
自分の両親だからこそ
できたのかもしれないけれど
遠く離れた地に住んでいる
義父母がもし近くに住んでいて
同じようになったなら
いざとなったらやっぱり
ほうってはおけないと思う。
いまだから言えるけれど
父の眼の手術の当日に
介護施設の資料を父に見せてきた
弟には腹が立って
悲しくて
病院の帰りに
人が沢山いる道で涙が溢れてきた。
そのまま不動産業者へ行って
あてもなく家を探した。
一緒に住めば
自分の身体を壊す可能性だってある。
甘ちゃんな気持のわたしより
先を見通した弟の方が
冷静な選択なのだろうか?と
悩んだものだった。
今日は特に
老いてゆく父と母を
見ているのが辛くなって
早めに帰ってきてしまった。
許してください。
また行くからね。
櫻子
産土神社にも
お詣りしてきました。