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世の中には「表現の自由」というものがあります。すべての表現はその自由を保障されるべきであって、これは憲法によって保障されています。当然この自由が大切であることは言うまでもありません
ですが、どうでしょう?
社会生活を送る上で、この自由を全開で遠慮なく発揮し続けると、いろいろ差し障りもあるというのが現状ではないでしょうか。「ヘイトスピーチやめろ」という極端な話もあれば、言い回し一つで人間関係に亀裂が生じたりします。
表現は自由ではあるものの、そこには相手がいることもありますので自由の行使には責任が伴います。
良好な社会生活を送りたいのであれば、また少林寺拳士としての人との関わり方を考えるのであれば、愛語といいますか、自分の発する言葉には十分に注意すべきかと思います。
ですが一方で思うのは、思考はやはり自由であるべきですし、自分の頭の中に留めておく限りにおいては真に自由であるべきだと思っています。そこに責任は伴わないし、はたからどうこう言われる筋合いもない(バレもしないのでとやかく言われるきっかけもありませんが)
きっかけがない、と言いましたが「そんなことは考えるべきではない」という道徳的な話はあるかもしれません。それすらも私にとっては疑問です。
特に、能動的に思うこと(例えば、殴りたいとか、妨害してやりたいとか)ならともかく、受動的なこと(気持ち悪いと感じた、相手の行動にいらいらした、など)は自由かどうか以前に「思っちゃったものは仕方ないじゃないか」と思います。
これを「こんなことを思ってしまうなんて俺はなんてダメなやつなんだ」など思う必要はなく、堂々と思ったうえで「これは外に出すべきではない感情だったな。」程度に留めて、自分のその感情を「あ、俺今むかついてるわ」と素直に見つめればいいのかと思います。
マザーテレサの言葉で、「思考に気をつけなさい、それはいつか行動になるから」というくだりの言葉がありますので、行動にならないように思考の訓練はもしかしたら必要なのかもしれません。
それでも、それは自発的に必要と思ったときにすればいい話で、少なくとも他の誰かから「そんなことを思うだなんて!」と非難される謂れはないと思っています。
我々は宗教法人です。もともと宗教嫌いだった自分は、かなり斜に構えて教義等を見てきたつもりですが、自分の思考を縛ってくるようなことを言われたらさすがに無理でした。
「人を説得しても、たいして価値はない。人に本当に動いてほしければ”説得”ではなく相手に”納得”してもらわないとダメだ」という旨の言葉を創始者がしていますが、まさにそうだと思っています。
金剛禅として、他人の人生にかかわることをするからには、これは最低限の礼儀だし、自分にとっての最も譲れないラインだと私は思っています。
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