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昔、先輩から聞いたお話のご紹介+αです。

 

「賽の河原」っていう地獄がありますよね。親よりも先に死んでしまった子どもが、その親不孝さを理由に堕とされる地獄であったかと思います。その地獄でやることはいたってシンプル。河原の石を積み上げて、自分の身長より高く詰めればOK。解放されるというものだったと思います。

 

ただ、なかなかそうはいかない。その河原には鬼が居ていい具合に積みあがってきた石を見つけてはそれを崩していく。なので結局は無限地獄のような意味合いを持つ。

 

何か原典にあたって調べたわけではないのですが、私の古い記憶ではこのようなものでした。

 

 

子どもが鬼に意地悪をされて泣いている、といえば確かに心苦しい情景ではありますが、『地獄』という名前に対してちょっと軽くないか?と思う人もいるかと思います。

 

他の地獄は針の山、血の池などが挙げられますが、針で刺されつづけたり水責めを受けたりなど凄惨な地獄に比べると見劣りをするような印象を受けても何ら不思議ではありません。

 

何が地獄なんでしょう。子どもなので緩くしてるのでしょうか。

 

 

積み上げたものを崩され続けるつらさ

賽の河原のつらさを考えてみましょう。

 

確かに針の山のような肉体的苦痛や、血の池のような苦しさはないのかもしれません。

 

ただ、自分が目標に向かって積み上げていったものが毎回形を成す前に崩される。

 

自分の努力が永久に評価されない、報われない。しかも成功体験がまだ少ない子どもにとっては、この苦痛はいかばかりかと思うのです。これらはもしかしたら針の山の肉体的苦痛や血の池の苦しさに並ぶほどの苦しさかもしれません。

 

 

 

人の苦しみを取り除く

仕事においても、パワハラ上司の類型の一つに部下の仕事を全く認めない人が挙げられるかと思います。これは地獄の苦しみを部下に与えているのかもしれません。

 

我々少林寺拳法の拳士は、「人間は可能性の種子である」と表現し、人が努力をすればいかにでも成長できる可能性を有しているという人間観を持っています。そして、自分の可能性が花開くように努力することは当然tして、他人の可能性が花開くことを願い・協力することが少林寺拳法の修行と言ってしまって過言ではないと思っています。

 

賽の河原という地獄の性質を深く心に刻みながら、そのような地獄に陥らせないように努めていきたいものですね。

 

 

 

 

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