【Royal Crystal Cafe】
「ねえ、この本ね。帯の下に、黄色い花が隠れておりますのよ」
とTは言うと、本の帯をめくった。本の帯というのは、編集者が唯一、自己表現できる場所だそうだから、帯をとらずに本は読みなよとTに勧めてから、早いものでもう二ヶ月が経つ。
『逃げても、逃げても、神は追ってくる』
と書かれた帯の下には、たしかにTが言ったとおり、黄色い花が一輪咲いていた。
このカフェの入り口には、シャガールが飾られており、中に入ると、これまた絶品の絵の数々と目が合う。そんな空間で、Tは本の表紙となっている絵に隠れた黄色い花を、僕に見せてくれているわけだ。
「この花、綺麗でしょ。なんていう名前なのかしら」
「さあ。でも、これ一村の作品でしょ」
「いっそん」
「うん。日本のゴーギャンって言われた田中一村」
奄美大島にいかにもいそうな鮮やかな色が、水槽の中で動いている。水槽だけでなく、椅子やテーブルの寸法もオーナーによって計算されて作られており、それに加えて、この超一流どころの絵。そして、これまた世界一のジンジャーエールが、黄金色を弾かせて運ばれてきた。
「じゃあ、その一村の作品名を調べれば、花の名前出てるんじゃない」
「花の名前が、絵の作品名とは限らないじゃないか」
「でも、この絵はたった一輪の花のために存在している絵だと思うわ。絶対、この花の名前がタイトルよ」
「どうだろう」
「そうに決まってるわ」
「それよりも、機会があったら、一村が九歳のときに描いた絵を一度見てみるといいよ」
「どうして、そうおっしゃるの」
「一村自身が、閻魔大王への土産として描いた最後の作品よりも、いいから」
「じゃあ、九歳のときの作品が、生涯最高傑作だとお思いですの」
「ええ。お思いですの」
「それは、あまりにも酷くありませんか」
「九って数字には、極まるっていう意味があるらしいからね。極まって、また一から始まる。一村という名前になんとなく合っていると思うけどな」
「それでも、私は嫌ですわ。アートというのは、その人の歴史が絵と目が合った瞬間に、目の前に広がるからアートであって、九歳という年齢は、さすがにお若すぎますわ」
「そういうもんかね」
「そういうものですよ」
再び、シャガールの絵の前を通って、僕たちは地上へと戻った。
Tがえんぴつを買いにいくというので、えんぴつ専門店の五十音さんまで、肩を並べて一緒に歩いた。
「肩、ちょうど頭をもたれるのに、いい高さですわね」
と、Tがもたれかかってきたので、僕は肩を貸した。
五十音の向かいには、宝童稲荷という小さな可愛らしい神社がある。そこで、お参りしてから五十音に入ろうと、Tを誘った。
鈴を鳴らし、二礼二拍手をした直後だった。
「あっ……」
「どうされましたの」
「さっきの作品の名前思い出した」
「なんですの、突然」
「逃げても、逃げても、神が追ってくるから、追いつかれたんじゃないか。あの作品の名前は、ビ……」
Tの唇の感触が、突然、空から降ってきた。目をつぶった真っ暗な僕の世界の真ん中に、黄色い花が静かに咲いている。