【Royal Crystal Cafe】

http://r.gnavi.co.jp/p621700/


「ねえ、この本ね。帯の下に、黄色い花が隠れておりますのよ」

 とTは言うと、本の帯をめくった。本の帯というのは、編集者が唯一、自己表現できる場所だそうだから、帯をとらずに本は読みなよとTに勧めてから、早いものでもう二ヶ月が経つ。

 『逃げても、逃げても、神は追ってくる』

 と書かれた帯の下には、たしかにTが言ったとおり、黄色い花が一輪咲いていた。

 このカフェの入り口には、シャガールが飾られており、中に入ると、これまた絶品の絵の数々と目が合う。そんな空間で、Tは本の表紙となっている絵に隠れた黄色い花を、僕に見せてくれているわけだ。

「この花、綺麗でしょ。なんていう名前なのかしら」

「さあ。でも、これ一村の作品でしょ」

「いっそん」

「うん。日本のゴーギャンって言われた田中一村」

 奄美大島にいかにもいそうな鮮やかな色が、水槽の中で動いている。水槽だけでなく、椅子やテーブルの寸法もオーナーによって計算されて作られており、それに加えて、この超一流どころの絵。そして、これまた世界一のジンジャーエールが、黄金色を弾かせて運ばれてきた。

「じゃあ、その一村の作品名を調べれば、花の名前出てるんじゃない」

「花の名前が、絵の作品名とは限らないじゃないか」

「でも、この絵はたった一輪の花のために存在している絵だと思うわ。絶対、この花の名前がタイトルよ」

「どうだろう」

「そうに決まってるわ」

「それよりも、機会があったら、一村が九歳のときに描いた絵を一度見てみるといいよ」

「どうして、そうおっしゃるの」

「一村自身が、閻魔大王への土産として描いた最後の作品よりも、いいから」

「じゃあ、九歳のときの作品が、生涯最高傑作だとお思いですの」

「ええ。お思いですの」

「それは、あまりにも酷くありませんか」

「九って数字には、極まるっていう意味があるらしいからね。極まって、また一から始まる。一村という名前になんとなく合っていると思うけどな」

「それでも、私は嫌ですわ。アートというのは、その人の歴史が絵と目が合った瞬間に、目の前に広がるからアートであって、九歳という年齢は、さすがにお若すぎますわ」

「そういうもんかね」

「そういうものですよ」

 再び、シャガールの絵の前を通って、僕たちは地上へと戻った。

 Tがえんぴつを買いにいくというので、えんぴつ専門店の五十音さんまで、肩を並べて一緒に歩いた。

「肩、ちょうど頭をもたれるのに、いい高さですわね」

 と、Tがもたれかかってきたので、僕は肩を貸した。

 五十音の向かいには、宝童稲荷という小さな可愛らしい神社がある。そこで、お参りしてから五十音に入ろうと、Tを誘った。

 鈴を鳴らし、二礼二拍手をした直後だった。

「あっ……」

「どうされましたの」

「さっきの作品の名前思い出した」

「なんですの、突然」

「逃げても、逃げても、神が追ってくるから、追いつかれたんじゃないか。あの作品の名前は、ビ……」

 Tの唇の感触が、突然、空から降ってきた。目をつぶった真っ暗な僕の世界の真ん中に、黄色い花が静かに咲いている。

【おちゃらか】

http://www.ocharaka.net/



「あっ、シチダンアジサイ」

 井の頭線から外を眺めていたオルタンスが、つたない日本語で呟いた。

「シチダンアジサイ?」

「今、シチダンアジサイ見えたの」

「なんで、シチダンってわかるんだ?」

「ケンキョだから。カシワバアジサイのようなジコシュチョウないのよ」

「ふうん」

 線路沿いに幻と言われるヤマアジサイが果たして本当に咲いていたのかどうかは知らないが、この時期にしては珍しく、紫陽花色の空が一面に拡がっていた。謙虚という言葉は、シチダンアジサイよりもむしろオルタンスによく似合う。パリの時計屋の一人娘で、ダンサーとして世界を飛び回っているくせに、今時の日本人よりも大和撫子らしい。パリでも吉祥寺でも異端な娘と言えるのではなかろうか。

「どこに向かってる?」

「ニホンチャを飲みにね」

 僕たちは色々な香りを聴きながら、中道通りを抜けて行った。しばらくすると、おちゃらかが右手に見えてくる。奥の畳でアップルを立ち上げ、店のHP製作でもしているのだろうか。これまた大人しいフランス人の店員があぐらをかいていた。僕たちは、入り口付近にある椅子に腰を降ろした。

「何する、オルタンス?」

「ええっと、ヤキイモ茶?」

「じゃあ、焼き芋茶とアボガド丼を食べよう。澄いませえん!」

 注文をとりにきてくれたフランス人の流暢な日本語が耳に残った。店の奥では、昭和の香り漂う時計がゆっくりと時を刻んでいる。

「アジサイ、好きなの?」

「うんうん。アンマリ。枯れても茶色い幽霊みたい残ってるでしょ?」

「その割には、名前詳しいね」

「花、好きなだけね」

「アジサイも花だけど」

「きちんと枯れないは、花じゃない」

「ふうん」

 僕たちの前に、アボガド丼と焼き芋茶が2つ運ばれてきた。急須とお茶葉、茶碗にお湯と出てきたものだから、オルタンスが目を丸くしている。

「これ、どうやって飲む?」

「さあ……」

「あなた、ホントに日本人?」

 オルタンスは的皪な美しい歯を魅せて、微笑んだ。

「あそこのフランス人に飲み方を聞いてみよう」

 僕たちはニホンチャの飲み方を、店員のフランス人に全て委ねた。

 帰り道は、いつの間にか暗くなっていた。

「アジサイは同じ土に植えても、どんな色の花が咲くかわからないんだって」

「ふうん。ワタシどんな色の花でもいいよ」

 とだけ、オルタンスは言って、中道通りにちょこんと舞った。


【金の猿】

http://www.sometime.co.jp/kinsaru/main.html


日は落ちて、世の中のものが全て橙色に染め始まる。段々と藍色に消えゆく井の頭公園を横目に、織本夕子は「金の猿」でビールを一口口に流した。黄金色の泡液体が夕子の決して派手ではない朱色の唇を通り越す。
「お姉さん、こんな洒落たお店でおひとりですか?」
「つ~か、遅いから!!」
 夕子は星野達彦に言った。
 悪いが、もうお姉さんという歳じゃない。武蔵野美術大学、通称ムサビの学生だった夕子は、合コンで達彦と知り合った。たしか駅の南口のありふれた居酒屋で、夕子も達彦も人数合わせで参加したのが、始まりだ。その当時、夕子にも達彦にも恋人がいて、結局その二人が浮き、二人だけで話す空気になり、十五年以上経った今もそいつと話している。そして、夕子と達彦だけがその合コンに出たメンバーの中で、未だ独身なわけだ。
「ごめんごめん、これでも仕事が忙しくてね」
「はいはい、仕事で遅刻なんて、偉くなったものね」
「まあまあ、今宵は七夕ということで、俺がオゴるから」
 七夕かぁ。
 とうとう夕子の前に、彦星らしい彦星は現れず、あっという間に年月が経った。まさに年月だけは流れ星で、肝心なときはいつも雨。夕子は何年か前の男からもらったピンクシルバーのピンキーリングに目をやり、ビールをまた喉に贈った。
「なあ、夕子知ってるか?インドにはな、ティミという鯨よりもでかい魚が海の向こうにいるんだ。でも、そのティミはティミ・ギラというさらに大きい魚に丸飲みされちゃって、さらにティミ・ギラはさらにでかいティミ・ギラ・ギラに食われんだ」
「具体的な無限の話ね」
「人生みたいだな」
「どこが?」
 夕子は笑った。最近、笑い方に品が勝手に出てきてしまう。
「さあ……」
 達彦もいつの間にか大人の男になっている。首から垂れる薄い紫のネクタイはムサビ的に合格点をやっても良い。
 また流れ星が通り、あっという間に閉店の時刻になった。
「あっ、雨」
 達彦が言った。
 そう。夕子の人生、七夕はいつも雨……。
「仕方ないな、入ってけよ」
 達彦のブラックの鞄から、竹色の折りたたみ傘が出てきて、夕子と達彦の前で小さく広がった。夕子は達彦とくっついて、駅に向かった。
 サンロード側のネオンが天の川に見える。
 雨の七夕も悪くない。


【ORANGE CAFE】

http://www.orange-cafe.info/



桜の花びら一枚で、この境界線なき青空をすべて包み込みたい春だった。
「ひとりだけで大吉ひくより、ふたり一緒に吉をひくなんてすごくない? しかも、同じ二十七番の吉!」
 成田山ではしゃぐ空野舞を思い出しながら、土野草太はエビトーストをまた一口食べた。たしかに、どんなに愛し合っているカップルでも、おみくじを同時にひいて、番号が同じになるなんて、なかなかないかもしれない。偶然というのは、時として、男女の間に恋を芽生えさせるものだが、空野と土野の間にそれが芽生えたのかどうかはわからない。そして、よくわからないまま時が流れた。
 今、土野がわかっていることは、このエビトーストが格別にうまいということだけだ。
 空野とは、大学のゼミが一緒だった。二人共、誰も知らないような言語の文法性に魅せられたクチだ。そして、言語学が関係したのか、それぞれの名前通り、空野は客室乗務員として、世界中の空を舞い続け、土野は逆に吉祥寺の奥深くへと根を生やした。今日も最近お気に入りのカフェに入って、ニッチな雑誌の編集をしている。
 まぁ、二人とも吉をひいているだけあって、人並み以上に満ち足りた人生を歩んでいるようには思う。もっとも空野とはここ数年、連絡をとっていないが・・・。
 考えごとしながら、ぼーっとしていると、天井から突然声が降ってきた。
「まだ吉祥寺にいたんだ!?」
 エビトーストが舞い上がり、懐かしい口に入った。空野が、目の前に舞い戻ってきた。
「なんで、いるの?」
「久々にきた吉祥寺で、たまたまカフェに入ったら、土野がいただけよ」
「ふうん」
「何、ふうんって?」
「じゃあ、会えたのはたまたま?」
「そう、偶然」
「ふうん」
 世間では、偶然が二回重なることを運命と呼ぶだろうか? 三回越えたら、運命かもしれないと土野は思った。
「コレ、美味しいね」
「俺のエビだけどね」
 と言って、照れ笑いがふたつ咲いた。
 井の頭公園の桜の花びら一枚お借りして、こっそり包み隠したい春が帰ってきた。
「おかえり」
 たしか、いつぞやのおみくじには、こう書いてあったと思う。

待人:慌てなければ、現れる。

 慌てた覚えはないが、再会に五年もかかった。そこら辺が吉なのであろう。