正岡容❷❗️一門の一番弟子が米朝❗️正岡容は多芸多才で、浪曲『天保水滸伝』❗️の作者として有名
先生が没して久しいが、今日に至るも正岡容一門の絆は固い。
小沢昭一、加藤武、大西信行、永井啓夫らあまた門人が集えば、
親分の悪口をサカナに宴果てることがない。
私と加藤武の他は下戸ばかりだが、その下戸がやかましい。
師は破滅型の奇人だけに皆、破門されたり、一再ならず泣かされている。
正岡容は異能であった。
19歳で歌集、20歳で小説『影絵は踊る』を発表した。
芥川龍之介が菊池寛宛てのハガキで激賞し、
それを菊池寛からもらって大事にしていた。
後に紛失してしまい、しきりに残念がっていた。
小説『円太郎馬者』は古川緑波で、『粂八ざくら』は水谷八重子で、『灰神楽三太郎』は三木のり平で芝居になった。
『寄席囃子』『寄席行灯』といった随筆もある。
また、歌謡曲を30曲ぐらい作詞した多芸多才の売れっ子だった。
なんといっても正岡容の名を天下に知らしめたのは『天保水滸伝』だろう。
浪曲の台本を多く手掛けた中で、これは玉川勝太郎の名調子と相まって一世を風靡した。
酔うてはうなり、我が師をしのぶ秋の宵である。
利根の川風 たもとに入れて
月に棹差す 高瀬舟
水にせかるる水鷄鳥
恋の8月 大利根月夜
加藤武の一文が、正岡容一門の雰囲気をよく伝えている。
私の『米朝落語全集』の月報に載っていたもので、一部引用する。
🟡正岡容はどういう訳か、家に蝟集する人物の格付けをするのが好きであった。
よく正岡容の年賀状などに、
浪曲のチラシ番付よろしく一門の名前が連なって印刷されていた。
門下としてあるのは、格が上らしく、
寄席の看板の太字で正岡容と大書してある足元に、《門下》として大西、永井はじめ息のかかった落語家の名がにぎにぎしく並んでいた。
それから、ちょいと小ぶりの字になって、《社中》となるのである。
この社中の中に小沢がおり、
私もやっと文字通り、
一番末席をけがして名前が残っていた。
門下の連中の出入りは激しかった。
前年までいい所にいた者が、今年は忽然と消えちまっている。代わって新しい名前がおさまったな、と思うと翌年にはまた消えてしまっていた。
つまり、しくじる、お出入り差し止めというやつで、正岡容門下の栄枯盛衰の度合いは、
極めて厳しいのである。
ところが、この門下にあって、
決まった位置に毎年、おさまっていた名前があった。これなん、誰あろう、社中の私がまだ会ったこともない、桂米朝その人なのである。
関西にいて、唯一、先生が手塩にかけた落語家で、まだ若手という。
そして酔ったまぎれの大先生の話の中にもちょくちょく登場するのである。
もっとも、先生の話は大抵が酔っているのであって、下戸ぞろいの門下、社中は正座してお相手をするのである。
その酔態は青史に残るような相当なものであった。
芸人のドジをふんだ話を酒のサカナにするのが大いに好きで、揚げ句が「バカだね、バハハ」と豪快に笑い飛ばすのがきまりである。
話が世話場になると感極まって袖口から襦袢を引っ張り出して、さめざめと泣く。
つられて、こっちも目頭の一つもおさえようとすると、「色っぽいね、ガハハ」と手前でうけて、おしまいはもう、しったかめったかになって、ぶっ倒れてやっとおひらきになるのである。
桂米朝が話題になる時は、ドジ話の人物としてではなかった。
何と珍しくも、アッパレ勉強家の鑑として登場するのが、常であった。(了)
ひたすら先生の家に押しかけて教えをこい、
一時は芸能研究の道を目指そうかと思ったぐらいだから、確かに熱心ではあった。
その印象が強かったに違いない。
これほど気分屋の逆鱗に触れず、
最後まで一門に名をとどめたのは、
あげて遠く上方の地にいたためだ。
そんな私が一応、一番弟子の名誉をちょうだいしている。
もっとも一同が「あにさん」と立てくれるのは、
先生の法事の時だけだ。
これも面倒な寺への挨拶とかすべて私のに押しつける算段なのである。