落語家列伝。柳家三語楼❷❗️落語をモダンなセンスで改革した革命家。志ん生や談志が憧れた巨人
昭和の名人、古今亭志ん生も、その影響を受けた一人である。
志ん生は生涯に何度も師匠を変えているが、
昭和2年、三語楼門下に入り、古今亭馬生から改名して柳家東三楼と名乗った。
以後の5、6年間は、三語楼が設立した落語協会(俗に三語楼協会という)に属し、柳家ぎん馬、隅田川馬石さらに柳家甚語楼と改名を重ねた。
若き日の志ん生は4代目橘家圓喬を崇拝し、芸の目標もそこへ置いていた。
しかし、なかなか売り出すことができず、悩んでいた時に手本にしたのが、三語楼の芸だったといわれる。
古風な噺に突飛なギャグを入れたり、写実よりはナンセンスの面白さをとる方法に目覚めたのだろう。
例えば、『寝床』では、旦那の義太夫から逃れたい番頭が蔵へ逃げこむと、旦那が蔵の窓から義太夫を語りこむので、蔵の中は義太夫が渦を巻いて、番頭が七転八倒する・・・・というナンセンスなギャグがある。
この三語楼の演出はそのまま志ん生に受け継がれ、定評ある八代目文楽の『寝床』とはまたひと味違う噺に仕立て上げられた。
もっとも志ん生の場合、圓朝から圓喬につながる写実的な芸の基礎があったからこそ、三語楼風のナンセンスをうまく吸収できた。
つまり、圓喬と三語楼という両極端のお手本が、志ん生の中でうまく融合したということができるのではないだろうか。
🟡『古今東西 落語家辞典』編集【諸芸懇話会+大阪芸能懇話会】から。
晩年は恵まれず、不遇であった。
昭和13年3月10日。
当時の陸軍記念日❗️と言われた日、その時分は七代目金原亭馬生を名乗っていた愛弟子に次男坊が生まれたので、その日にあやかって、『強次』と命名してやった。
これが、現在の古今亭志ん朝である❗️
三語楼にとっては、
それがこの世における最後の置き土産となって、
それからわずか3ヶ月後の6月29日、
かつての一大風雲児❗️も、
寂しく64年の生涯の幕を閉じたのであった。