今『ナウシカ解読』(稲葉振一朗著、窓社、1996)という本を読んでいるのですが
一応漫画を語るための語りの勉強をしようと思ったのですが
なんだか難しいようだ、と言うことがわかった

弁解のようになりますが
この本自体はとても面白いです

が一体この本誰に向けて書かれたのだろうか、私のためか?というか
現在の到達度な2/5程ですがすでにデリダとかロールズとか出てきちゃってヒヨコって感じです
記号論の問題も引用してて、テクスト、エクリチュール、パロール等々、専門用語、多数
そしてこれがデリダの言説で出てくる
ああ世の中にはバルト読んだことない人の方が多いんだよなぁと、自分の慢心を少し反省
そういう私だってフランス系以外の言説だとヒヨコヒヨコしてしまうし、ちょっと調子ぶっこいていたなと
しかし昨日ジュンクドーに行って思ったのですが
もちろん
世の中にあるテクスト全部に直に触れるなんて
できない訳なんですよね
翻訳読んだって原文読めなかったり
訳だって複数あるし
そもそも数がボーダイで

話が気がついたら逸れまくっていた
つまりこの本結構限られた読者の範囲を想定しているぞ、という
記号論と近代西洋哲学、果ては正義論まで
何となくでもわかっていてかつ、『ナウシカ』も読んでないと
ハードルが結構高めでございました
語り、を、論じる所にまで持ち上げるには
一般論なんか持ち出してきちゃダメ
可能な限り出典のはっきりした言説・思想でなければ
公に発表するならば尚更…

私も少し自己のエクリチュールについて考えようと思った

しかしここにおける記事については
私の趣味の域をでないので
差し当たり無視して更新したいと思います

『ナウシカ解読』については読み終わったらなんか書こうと思います
噂の都条例に関する批判?とテクストが社会に持つべき責任について、ONE PIECEの場合の所見です




記事がひとつだけでは寂しいので、過去に書いた文章を掘り出してみました。
さっそく若干戦闘的ですが、愛あるまなざしで批判してくださいっ


各方面で話題の一件
賛成か反対かと言われればそりゃ反対です
表現の自由は保証されるべきだと思う
条例の内容云々よりも
「権力が自由を制限すること」
この点がどうなの、と思うのです
きっかけを作る、というのは結構大きなことだと思うのです
可不可の基準が人間に委ねられている以上、その線引きはいつどのようになってしまうかわかりません
ただし、出版側・受容側の虫のよさも否定できないと思います
いくら自由、と言っても、モラルもクソもない漫画を放置し続けてきたことも事実ではある
イマージュが言語のそれよりもショッキングな表象形態であることも否定できない

っていう文句を考えながら
これは多分警告なんだろう、と思った
お前らちょっと考えろよ、という
自由だからってやっていいことと悪いことがあるぞっていう
都知事だって元は「表現者」であったわけだから、公の権力が表現の自由を制約すべきでないってことくらい、私なんかよりずっと真剣にわかっているはず(と信じたい)
表現媒体に優劣があるなんて思っているわけがない(と信じたい)
漫画やアニメは「サブカル」というレッテルに胡座をかいているところがなくもないと思う
今や日本の「カルチャー」としてしっかり根をはっているこの文化は
日本と世界に対してしっかりとした存在感と影響力を持っているんだぞっていう自覚が足りなかった部分は無きにしもあらずだと思う
漫画アニメ等の表現媒体はは小説等の言語媒体の影響力を遥かに凌ぐ
様々な思考・思想・欲望を持った人間がこれを「読んで」いるわけだから
自らの放つ言葉には責任を持つべきだ

ちなみに、というか例えば?
ワンピースはその責任を果たしていると思うのだけど、どうだろうか?
よく批判されるのがインペルダウンで囚人を解放しまくったことに関してなんだけど、
確かにあの中には極悪非道の限りを尽くした海賊も含まれていただろうけど
基本的にワンピースの世界では「海賊を名乗ること」が罪になります
「何をしたか」って所では二の次なところがあります
それは「海賊を名乗る」ってことが「現体制の否定」になるから、だと思うのですが
それは現実の現代社会では罪になるようなことではありません(現代の現実世界では一応「言論の自由」が保証されてますから)
もちろん「海賊」を名乗り残虐非道の限りを尽くすやつらもたくさん出てきますが、「海賊」っていうのは「自由と冒険を求めて海へ出るやつら」のことです(ワンピースの世界では)
この認識は間違ってないと思います(自由=何してもオッケーと履き違えている海賊もいますが(しかもワンピースの世界の認識はこちらがマジョリティの感がありますが))
それなのにインペルダウンに連行されて人権も何も剥奪され、懲罰という名の拷問の日々じゃぁ「悪」がどっちかなんて言うまでもないわけで(そもそもワンピースの世界には残念ながら「人権」はありませんが)
そんなリスクを負ってまでも逃れたい「体制」ってどんなだってなります(どんなだっていうか「ゴア王国」みたいな感じと思いますが)
ワンピースの世界では一般市民が信じる「善」にも「悪」にも善と悪が混在している
だから語るのが難しいのです
「善」である「海軍」「世界政府」にも善悪が混在し「悪」である「海賊」にも善悪が混在している
だから「「その目で」判断しろ」(たしぎがアラバスタで言ってたよね)
これがワンピースの語る言葉のひとつであると思うのですが
どうだろう

話が途中から変わった気がしますが、まあ、いいや
要するにワンピースは決して犯罪奨励漫画ではないよお母さん!!ってこと
しかしそれも読み方次第と思うと恐ろしい…

前置きが長くなりましたが(前置きだったんかい)
私が書きたかったのは
「おもしろい漫画は全部載せます」
少年ジャンプの、その心意気に乾杯

※ミクシィニュースの記事を受けての文章でした
はじめましてな人もそうじゃない人も
はじめまして
やろうやろうと思っていた
ONE PIECEを語る言葉探しを
いよいよはじめてみたいと思います(予定)
先ずは初心表明ということで
私の思う文学とは何かってことと
私がここでやりたいなぁと思ってることを
ここで書き表しておきます
ほとんどミクシィからの引用ままなので
お見苦しいところあるかと存じますが
よろしければお付き合いください

さて、

漫画を読むってどういうことなんでしょう
漫画というテクストは、イマージュなのか、言葉なのか
言うまでもないことですが
両者の複合体です
日本という国はそもそも西洋ほどイマージュと言葉の間にヒエラルキーはなく
むしろ「文字」というイマージュにも魂を見いだすような
そんな文化を持っている(いた)はずだ
だから日本のイマージュには、クレーやマグリットが試みる前から
イマージュ(絵画)の中に言葉(文字、言語記号)が普通に存在していて
お互いでお互いを補い合ってひとつのイマージュを作り上げていた
そういう文化の中でだから
漫画というイマージュと言葉を同時に展開する文化が高度に発展することが出来たのだと思っている
漫画の中のイマージュは
西洋のテクストの中の「挿し絵」とは全く違うものだ
あくまで「言葉」を補うための「挿し絵」ではなく
立派なテクストの主たる構成要素であるはずだ
一体どこのどいつが
漫画は低俗な表現媒体なんて言い出したのだろう
今の時代10人いれば9人が
漫画は言葉主体のテクストと同等に価値ある表現媒体と認めるだろうが
残念ながら逆に一人はまだ言葉主体のテクスト(つまり一般にいう文学作品)やイマージュ主体のテクスト(同様に絵画、映画、ある意味音楽)の方が「高尚」だなんていう馬鹿もいる。
言い切りますよ、馬鹿だと。
表現手段の間にヒエラルキーはなく
高尚、低俗の差は個々の作品間にしかない
21世紀だというのに
まだわからないか堅物ども

思うとイライラしちゃうんだキラキラ

話がずれてた
漫画を「読む」ってどういうことなんだろう
もちろん、コマを追っていくわけだ
言葉とイマージュを同時に
コマごとに一区切りにして
読んでいくわけだ
例えば登場人物の台詞を読みながら、それを言う登場人物の表情を読む
文字主体テクスト(以降はもう、本当はそう言いたくないけど文学と表記する)ならば、そう言うことはセリフの前後に書かれているから、同時にそれらを読むことはできない
それに文学だと詳しく描写しようとすればするほどテクストは肥大して
テクスト内の時間の流れが滞る
漫画だとそれは、例えばたった一枚のイマージュで表象されうる
これとおんなじような手法で文学やったのがシュルレアリスムの教祖、アンドレ・ブルトン
彼は『ナジャ』っていう文学作品の中で冗長な情景描写を廃して写真を一枚挿入した
同じ一ページを言葉で埋めるかイマージュで埋めるかって
これは別にそれだけの違いって訳じゃない
そうすることによって
テクストの読み方はある人にとっては豊かになったろうしある人にとっては乏しくなっただろう
イマージュは、「どこまで読むか」が読者に相当部分委ねられる
例えば有名な『モナ・リザ』ちゃんを
微笑んでいる女の肖像、と読むこともできるし
女の眼差しの行方(彼女は何を見ているのか)、微笑みの正体(よく見ると目が笑ってない、何この微妙な表情)、矛盾する背景(騙し絵のような遠近法、単純にルネサンス期の世界の風景とも)
いや、イマージュはどこまでも浅く、どこまでも深く読んでいけるのさ
「助けて…」
と言ったナミの表情を
「ヒロインなのに鼻水て…」
と読むか
ナミの10年に渡る苦闘と苦悩、追い詰められた彼女に残された本当に最後の言葉(ぜんぜん、こんな言葉では足りないけど)
と読むか
は、読者に委ねられているつまり漫画読むって
結構高度なことを要求され場合もありきと思うよ?
てことさ
しかもイマージュと言葉っていう
性質の異なったものを同時に読んでいく
つまり解釈していくわけだからさ、
上の例を継続するなら
「助けて…」
と読みきる僅か2秒間の間に
それは読み取られるわけさ(精読するなら有に2分位は掛かりそうだけど、この2秒の後に「がぽっ」「すぅぅぅぅぅ」「当たり前だ!!」がやってくる漫画のスピード感、これも読むべきテクストの一部)
漫画を読むってことは、それだけのことなんだと思ったり
だからといって漫画「が」すぐれた表現媒体だと言いたいのではなくて
漫画「も」すぐれた表現媒体「たりうる」と言いたいだけ
私の大好きなバルトを引っ張ってくると
テクストってのは「読まれて」はじめてそこに存在するわけさ
「読者」が居なければ
漱石だってプルーストだって
無いも同じ
漱石のテクストが「漱石のテクスト」足りうるのは
読者がいたから
それもかなりがっつりと読んでくれる
バルトに言わせると
「読む」ことは「書くこと」なんです
これは具体的に文書をおこすことではなくてつまり「語る」すること
漱石から読み取ったことをを読者が語ること
それによってはじめて漱石のテクストのは現れてくる
何が言いたいかと言うと
漫画、のみならずあらゆるテクスト、つまりあらゆる「作品」は
誰かが読まなければ消えてしまうんです
あるいは読み「続け」なければ
読み継がれている作品だけが今残っているわけです
私はだから漫画を「読む」わけです
今はまだ「読みたいと思っている」位かもしれないけど
作品を語る言葉を探しているのです
ONE PIECEはもちろんのこと
私に世界の美しさを語りかけるありとあらゆる種類の作品を語りたいのです
消えてしまって欲しくないものを語りたいのですがな
大分上の方で私が言葉主体のテクストを「文学」と呼びたくなかったのは
「文学」とは「作品」の区分を示す名前ではなく、
「文学されたもの」あるいは「文学するもの」を示すと思うからです
つまり「文学」は名詞ではなく動詞なんです
「文学」とは先ほどの「語り」を実際言語記号に変換するための学問なわけです
文学が実学じゃないなんていう考えは今日から改めませぬか
文学はお金で表象できない価値を表象するものです
プライスレスなものにも意味があるだろう?かけがえのないものが、消えてしまっては嫌なものが
文学がなくなった世界はつまり、お金で買えるものしかない世界です。はい
文学、大事です
言いたいことはそれだけ