進学して一人暮らしを始めたが、友人はできず、ちょっと寂しい生活をしていた、私の部屋の床を、さっきから黒い物が動いている。せめてカブトムシであったらなあ、と淡い期待を持って見てみると、ゴキブリであった。

 

 ベランダのドアを開け、箒でゴキブリゴルフをする。カーリングのように滑らかに直進しない。イライラが蓄積されていく。もちろん、精度は落ちる。空振りすると、ゴキブリは明後日の方向へ走っていく。隙間には侵入させまいと、箒で隙間の入り口に壁を作る。

 参考書なしで、苦戦したが、ゴキブリをドアの手前に追いつめる。残すところは一次方程式を解くのみだ、といった爽快な思いで、大きく振りかぶったとき、私は心を打たれた。友人の少ない私が、自分の家に歩み寄ってくれたゴキブリを突き放してしまっていいのか、と思った。

 なぜゴキブリを嫌っているのか、と考える。物を見るとき、自分の口を意識しているから、と思う。使い古されたトイレ、腐った食べ物のような物を見た時に感じるものと、似たようなものがあると思う。

 

 空想をしているあいだに、ゴキブリはどこかへ移動してしまったようだ。太郎、と呼ぶことにした。さっそく、「太郎」と呼んでみる。太郎からの反応はない。ここに、太郎と共に生きる、と決めた。

 

 

 彼は、箒を戻し、部屋を片付け始めた。床の上の物が少なくなっていく。また、彼は、私にアルコール消毒液をかけてきた。私は、走り回った。私は、床に落ちている、菓子のくずを口に運ぶ。

 

 彼は、毎朝、私に消毒液をかけてくる。その度に、私は走り回る。また、毎朝、パンくずや、果物の欠片などが同じ場所に落とされている。私は、それを食べるようにしている。この場所は、見晴らしが良くなった。他の虫は、少なくなったが、見つけやすい。その虫をよく食べる。彼が殺すこともある。彼は、私を攻撃しない。

 

 ある日、彼の母が、この家を訪ねて来た。彼は留守で、合鍵で入って来た。彼女は、私を箒で叩いた。私はひるんだ。ティッシュペーパーで掴まれ、ベランダから落とされた。私は、しばらく落下地点のあたりをウロウロした。

 日が暮れてから、私は、地面の、明かりが照らされている所へ移動した。突然、明かりが人影に遮られた。人間の吐息による、熱を感じた。しゃがんでいるのだろうか。

 私は、掴まれ、どこへともなく放り投げられた。