眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて) -35ページ目

続編No.11<環境問題とエネルギー>

地球は熱力学的に開放系であっても、工業資源に関しては閉鎖系にあるため、廃物処理に関しては、CO2などの無害な天然物質と、熱エネルギーに転換する方が好ましいといえる。
二酸化炭素は、生態系を乱すことなく植物によって速やかに酸素へと転換できるし、余剰の熱エネルギーは宇宙へと放熱されるからだ。

その一方、核廃棄物は何世代にもわたって生態系に重大な悪影響を及ぼす環境汚染物質となる。
環境を保護するとは、廃物を無くすことができぬ以上、自然が分解できるキャパシティーの中に、それらを返還することであるといえる。
とすれば、真に環境保全を考えるなら、原発ではなく、既存の火力発電を用いるべきなのは明らかだ。

他方、最終的な次世代エネルギー源を太陽光ほか自然のエネルギーに見出すこともナンセンスだ。自然からエネルギーを得るためには、容量依存性に巨大なプラントを必要とするばかりか、高性能の蓄電装置がなければ、その供給を安定させることができず、またそのプラントの建造、維持そのものに、石油資源が必要となるからだ。
この点、化石燃料からエネルギーを取り出す既存の火力発電の方が、プラントの大きさに比して得られるエネルギー量が格段に大きく、高効率である上、安定した供給が可能である。
とすれば、未来のエネルギーを自然に求めるということは、ある意味、時代を逆行するものであるといえるかもしれない。
とはいえ、化石燃料は有限な地下資源であるため、やがて枯渇することは周知の事実である。つまり、現状で、高度に電化、機械化され、工業化の進んだ我々の文明に未来はないといえるのだ。

しかしながら、拙著の<テスラコイル>で紹介した、空間からエネルギーを取り出せる装置こそ、真にエネルギー問題を解消できるテクノロジー足りうるのではないだろうか。
空間からエネルギーを取り出す以上、熱力学的に開放系の供給源であるばかりか、太陽光発電や風力発電のような巨大プラントを必要としない。
また、このテクノロジーは、我々に安価で安全な宇宙航行手段をすら提供することになるだろう。
そうなれば、工業資源を広く宇宙に求めることも可能になり、物質循環においてすら、開放型のシステムを得ることができる。
新世代のエネルギーはフリーエネルギーに、そして、当面は石油や天然ガスを中心とした火力発電に頼る形こそ、現状では最も間違いの少ない選択であると私は思う。

続編No.10<陰謀論の根拠>

我々が原発を手放せない理由は、目下のところ、既存の火力発電で電力をまかないきれないからだという見解があるようだが、これは
http://www.kisnet.or.jp/net/koide.htm
にあるように、原発のスペシャリストが否定している。
つまり、既存の火力発電で、十分電力をまかなうことが可能なのだ。
しかしながら、我々が火力発電を選択できにくくさせているのは、CO2排出に伴う地球温暖化の「事実」が前提にあるからなのだが、これも
http://env01.cool.ne.jp/index02.htm
にある通り、極めて疑わしいといえる。

では、なぜ、こうした虚偽の科学的事実が世界でまかり通るようになったのかを考えねばなるまい。
そこには上記サイトも指摘するように、電力以外の目的で原発を必要とする者たちの陰謀を仮定するのが自然な発想であろう。

日本における原発政策の発起人は、
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/genshiryokuhatudenco/top.htm
にある通り、中曽根氏であるといってよい。
ちなみに、中曽根内閣は、防衛費1%枠の撤廃という歴史的怪挙をなしとげ、米国軍産複合体との癒着を強く感じさせる事例に事欠かぬ、きなくさい内閣でもある。
それは、宮村浩高著「葬り去られた真実」においても参照できる。

一方、米国軍産複合体が、今や米政府とその軍事力を操り、ひいては世界を操る中核となっていることは、
http://tanakanews.com/d1214neocon.htm
でも詳しく指摘されている通りである。

加えて、モルデカイ・モーゼ著「日本人に誤りたい」の指摘を鑑みても、世界の政治、経済の動向において、背後にユダヤ教原理主義とでもいうべき極右勢力の暗躍を想起するのは、それほど無理な話ではない。
彼らは、世界の中枢にあって、情報を支配し、最終的に、核兵器及び原発によって、彼らの信奉する聖書予言を具現化させようと目論んでいるのかもしれない。

事実、
http://www.fepc-atomic.jp/world/
からも、必要ないはずの原発が北半球のほぼ全域に点在している一方、イスラエルのある西アジアには、わずかに一基がイランにあるのみだ。
とすれば、仮に大規模な自然災害がなくても、また、核戦争が起こらなくても、原発の管理にかかわるコンピュータソフトに小細工を加えるだけで、いつでも人為的にリセットを生ぜしめることが可能なのである。

私は、人の歴史を唯物史観でとらえるのは間違っており、歴史とは、複数の意思と意志によって織り成されるものだと考えている。
実際、歴史の潮流に対して合理的な説明をつけるのに、宗教的価値観のせめぎあいを抜きに論ずるのは無理があるからだ。
だとすれば、ユダヤの陰謀に関する諸説をトンデモ説に追いやり、荒唐無稽と断じてしまうのは、早計にして思慮不足といわねばなるまい。

続編No.9<温暖化理論の帰結>

地球温暖化の危機が叫ばれている。
我々が無尽蔵に化石燃料を消費していることがその原因なのだそうだ。
<地球環境問題>の章に著したこの冒頭句、やはり、謹んで訂正、お詫び申し上げる必要がありそうだ。
温暖化理論のもたらす帰結について考察してみる。

①CO2排出増加に伴う地球温暖化理論は、科学的には不確定な要素も過分に有しているものの、現時点での一般常識、学問的な多数派理論である。

②炭酸ガス原因説の真偽が明らかになってから対策を講じても手遅れになるかもしれないので、上記の不確定性を考慮にいれても、具体的な対応が必要である。

③CO2は森林資源による酸素への転換が可能であり、その保護育成は急務である。

④CO2削減を目的とした場合、工業産業を営む我々は、その生産活動の結果もたらされる分解物として、直接的には環境に無害な選択肢の一つを奪われてしまうことになる。
また、核廃棄物は環境に対して直接的に極めて長期的な汚染物質となることが知られているにもかかわらず、温暖化理論は原発推進派、容認派の主張を後押しする重要な根拠になっている。

⑤実際には原発もCO2排出低減の材料にならず、何かの画期的な技術革新がなければ、工業産業に依存する我々の生産、消費活動そのものを、個人あるいは企業レベルで大規模縮小せねばならない。

⑥京都議定書に批准する国としない国との間で経済的な競争力の格差が広がり、世界的にみて経済情勢の悪化は促進される。
(ここで、温暖化対策をビジネスチャンスと捉えて新たな生産活動を行えば、経済情勢の悪化を免れることはできるかもしれないが、その生産活動に地下資源の消費はつきまとい、CO2を含めて多種多様な分解物を生じることになるので、温暖化対策の目的は達成不可能である。)

⑦経済情勢の悪化や国家間の経済格差の助長は、テロや戦争を誘発しやすい状況をつくる。(戦争は不況打開の公共事業足りうる。)
そこで原発が標的になれば、後々の地球環境、生物遺伝子に回復不能な影響を残す可能性は決して低くない。
(余談だが、東海地震の危機が懸念される中、予想震源地の真上には浜岡原発が、普段からトラブルを起こしながらも稼動している事実がある。)
それでも、地球温暖化に対する地球のネガティブフィードバック機構による天変地異(?)や、ポジティブフィードバックに伴う回復不能なダメージ(??)をある程度低減、回避することはできる(???)。

これが、現在考えられうる温暖化理論のもたらす帰結である。

もともと温暖化論争は、原子力産業の御用学者グループと石炭産業の御用学者グループとの間でなされてきたものであるという。
とすれば、両者の結論は、はじめから決まっており、その論争が科学的であるか否かには疑問の余地がある。
一般の気象学者が、より研究費を得られる側につけば、それが多数派を形成し、結果的に地球暖化理論なる妖怪が科学的常識になりえてしまうからだ。

誤解のないように申し上げておくならば、私は個や企業、あるいは国の行う資源の節約といった努力を否定するつもりは毛頭ない。
しかしながら、唯物論が支配的な資本主義社会でそうした努力を行えば、それ自体が、我々の首を絞めてしまうことになりかねないという現実を抱えているのも事実である。
節約やリサイクルの努力は、もののありがたみを実感するという精神的な財産にはなりえても、現実的な温暖化対策にはほど遠いと考えられるのではないだろうか。
それゆえ、仮に温暖化理論が正しかったとしても、CO2排出削減に対策を見出すのはナンセンスであると考える。

現時点で、我々が環境保全のために掲げるべき目標は、CO2排出削減ではなく、自然が短期的に分解することが困難な、生態系にとって有害となる物質の排出を削減することである。
そこにエネルギーを費やすことには意義があるだろう。
もっとも、そうしたエネルギーを費やすという行為自体、そこに何かの分解物を生成する一種の消費活動であるという認識が必要だ。

そもそも、CO2排出が人間にとっての環境に不都合だからといって、地球上の生命全体に脅威となる核汚染を生み出すテクノロジーを選択するのは愚の骨頂であり、本末転倒もはなはだしい。

現状では、吐息の主成分でさえあるCO2排出を騒ぐより、その害悪が明らかな窒素酸化物や硫黄酸化物ほかの排出削減に力を注ぎ、森林資源の保護育成に専心することこそ、肝要であると愚考する。
環境問題の本質を見失ってはなるまい。

参考サイトはhttp://env01.cool.ne.jp/index02.htm である。
同サイト中、
 <反論になっていない松岡コメント> 名城大学 槌田敦教授
「これまでの温暖化論争は、松岡コメントにもあるように、シュナイダーとリンゼンを両代表とする科学者グループの間でなされている。前者は原子力産業の御用学者グループであり、後者は石炭産業の御用学者グループである。両者ははじめから到達すべき結論が決まっており、けっして科学的ではない。この論争の勝敗はどちらに行政が味方したかで決まってしまう。それは,どちらのグループに研究費が余計に出るかを意味する。研究費がたくさん出るほうに、一般の気象学者が同調することになり、多数派が形成されることになる。」を一部参考及び引用。

続編No.8<環境問題と陰謀>

今や、CO2による地球温暖化は動かしがたい「事実」であり、地球環境に優しいといえばCO2を出さないことであるかのように思われがちな節がある。
そのおかげで、原子力発電は、その廃棄物が環境に対し極めて有害な物質であるにもかかわらず、CO2を排出しないというだけで、その存在意義が認められてもいる。
しかしながら、昨今言われる地球温暖化とその原因を、CO2排出の増加に求める見解には科学的な反論がある。

本来、地球のエネルギー循環は熱力学的には開放系であり、地球は太陽から熱を吸収し、宇宙に放熱するという調節を行っている。地球の気温はこのシステムの中で維持されており、CO2濃度の上昇が、即地球の気温上昇をもたらすものかどうかには疑問を禁じえない。

確かに、昨今の異常気象の中には、先進国をはじめとした局地的なエネルギーの大量消費によって生じているものがあるかもしれない。
しかしながら、もともと温室効果ガスの主役は炭酸ガスではなく、水蒸気であることが知られている。
一方で、CO2の増大が水蒸気量を増やす遠因になるという説があるものの、実際の気温上昇は、CO2濃度増加に先行しているという厳然たる事実があり、CO2原因説には根拠薄弱な感が否めない。

また、CO2を排出しないはずの原子力発電にしても、発電時にこそCO2を発生しないものの、それ以外にはエネルギー消費に伴う大量のCO2を排出するため、実際にはCO2削減に何ら寄与しないという。
加えて、原発を踏み台にした核融合に次世代エネルギーを見出すことも幻想に過ぎないかもしれない。核融合のシステムは、原発と同様か、それ以上に極めて危険な装置であることが指摘されてきているからだ。

恐ろしいことに、日本の原発政策においては、日本の核武装を企図したものである可能性を指摘する声がある。
実際、原発の使用済み核燃料からは、軍用プルトニウムを採取できるという事実があり、これによって、日本はいつでも核兵器を開発、製造できる潜在的核保有国となっている。
さらに、核融合に関わる技術は、水爆(中性子爆弾)開発に直結できるという事実がある。
そこには、アメリカが、中国やインド、パキスタンといったアジア諸国の核保有に対する牽制を目的として、日本の核武装を後押ししている背景があるという。

こうしてみると、京都議定書が原発廃止の抑止力となっていることを鑑みれば、炭酸ガスによる地球温暖化説が世間でまかり通ってきた背景に、不透明な巨悪の導きを想定するのは、それほど荒唐無稽な話ではないかもしれない。
情報操作の裏には陰謀があり、陰謀のあるところには邪な意志があるものだ。
核を用いれば、世界にはいつでも人為的にリセットを生ぜしめることができる。
目論む者たちにとっては、核の存在こそが、何よりの切り札なのかもしれない。

科学的根拠や客観的事実を過信、盲信することはできないが、相対立する理論を前にしては、支持数の多寡ではなく、より信頼のおける情報源からの、より矛盾の少ないと思われる理論を選ぶことこそ、その時点で最も間違いの少ない判断になりうると考える。
ならば、核の推進を企図したと思しき温室効果理論にこそ、私は懐疑的な立場をとらざるを得ない。

続編No.7<リセットの危機>

浜岡原発は日本にしかけられた時限爆弾だ。
緊急停止装置などといっても、想定外の巨大地震では制御棒の挿入は期待できないかもしれず、メルトダウンの危険が常につきまとう。
しかも、ただでさえ、ふだんからトラブルの多い原発である。
東海地震が起きた場合、何が起こるかを指摘するのは予言に域にさえ入らない。
トラの住む穴に入って行く人間の身に何がおこるかをいうのは、予言にはならないからだ。

しかしながら、現状では地震予知が不可能であるばかりか、よしんば予知が叶ったとしても、行政による警報発令は、事実上不可能である。
警報を出した場合の損害が大きすぎるからだ。
一方、原発以外の有効な電力供給源の確保も当面期待できない(と思い込まされている)。

つまり、我々の乗った船は、タイタニックのごとく、氷山へとまっしぐらであるということだ。
となれば、頼みはネット情報で、個人が自分の責任の及ぶ範囲内で身を守るしかないだろう。
そのためには、地震予知に関連した無責任なサイトが必要だ。
皆がいろんなイメージを自由に語り合うことができるような。
中にはおかしな人もやってくるかもしれないが、優れた慧眼をもってさえいれば、何かの情報を得られるはずだ。科学と超能力との融合、超能力の市民権の獲得が急務である。
でなければ、極めて近い将来、日本に大災害が生じる可能性があり、大勢の犠牲者の発生が見込まれるからだ。
東海地震は科学が認める現実なのだ。
時は一刻の猶予もない。
犠牲者はできる限り少なくせねば。

また、地震と戦争には関係がある。
地震の損害が不良債権化すると、金融恐慌を招来し、労働に関する有効需要の創出不足とあいまって、失業者を増大させる。軍事行動は雇用対策としての公共事業になりうるので、このために戦争の起き易い状況が生まれる。
事実、安政江戸地震の13年後に戊辰戦争が、関東大震災の14年後には第二次大戦参戦が、この国に起こっている。
阪神淡路大震災は10年前。
時の移ろいは加速化しており、北朝鮮の強硬姿勢や、中国の急速な台頭は、何やら不穏なムードをかもし出している。

日本におけるリセットの危機は、すぐそこまできているのかもしれない。

参考図書 石黒 耀著 「震災列島」

続編No.6<科学的根拠>

地震は、遠い過去より連綿と繰り返す周期的な地殻変動である。
昨今多発する地震にしても、過去の経験を上回る規模では決してなく、建築技術の向上に伴い、実際の被害に関しては減少しているはずである。したがって、地震の多発がたちまちリセットの到来を意味するとは言いがたい。
これは良識派の理性的な見解だ。だが、本当にそう言い切ってしまうことができるのだろうか。
確かに、過去の記録を大きく上回る大規模地震は、滅多にあるものではない。しかしながら、現代の抱える特殊性は、何も高度な建築技術ばかりにあるとは言い難い。
一番の特質は、高度に機械化された電化社会であるということだ。我々の暮らしは、今やそのほとんどを電気に依存しており、その供給においては、実に40%近くを原子力によってまかなっているのが日本の現状だ。
原子力発電所の存在こそ、過去のいかなる時代にも存在しなかった現代文明の最たる特徴であろう。

原子力発電所と地震をキーワードにネットで検索すると、多くのサイトが、堅固な耐震構造や綿密な地盤調査を根拠にして、その安全性を声高に主張する。
一方で、こうした見解に対する理性的な否定意見も目立ちはじめている。
まず、原発肯定派の主張する「活動可能性のある活断層を原発立地点として回避している」に嘘がある。日本の原発には、地震の特定観測地域や観測強化地域、ないしはその周辺で、すでに建てられてしまっているものが存在するそうだ。

また、耐震設計に関わる信用性にも疑問が残る。
実在のノースリッジ地震で最大加速度1800ガル、1993年の北海道南西沖地震では1600ガルであったにもかかわらず、日本の原発中、最大の安全性を見込まれている浜岡原発(東海地震の予測震源地にある)でさえ、最大加速度600ガルまでの耐震設計に過ぎない。
ちなみに、1995年の兵庫県南部地震は、最大818ガルであったという。
さらに、最も深刻な問題は、炉心冷却システムにおいて、構造上、著しい脆弱性がある点だ。地震に際して、原子炉建屋とタービン建屋における耐震構造の相違により、両者の振動に生じる位相差が、それらを結ぶ配管に悪影響を与える危険性が指摘されている。また、地震そのものや、津波が運ぶ土砂による影響などで、海水の取放水ができなくなる危険性が指摘されてもいる。
炉心冷却水は海水に依存しており、その不足、喪失は、炉心融解の危険を意味するものだ。
原子炉の自動停止機能にしたところで、BWR(沸騰水型原子炉)では、予想を超えた大地震時に制御棒を挿入できるか疑わしい。
また、原発そのものを制御、管理しているのが、電磁派攻撃に脆いコンピューターであるという事実も、危険因子の一つといえるだろう。
加えて、危険な存在でありながら、セキュリティに脆弱性を抱える原発は、テロの道具にはうってつけだ。

無論、上記の指摘には、これまた反論があるだろう。つまり、科学的根拠なるものは、常に科学的反論を従えているものであり、つきつめれば、何が正しいのかはなはだ怪しいものである。近年叫ばれる地球温暖化の事実とその原因にしても、それらをまるごと疑問視する声まであるほどだ。結局、何を信じるかは情報の受け手側の主観に負うのであり、科学的根拠なるものによって保証された安全性など、信用するに値しないといえるだろう。
地震大国の抱える現代の特殊性は、原発の抱える危険性に色濃く反映されており、我々は薄氷の上で暮らしているようなものなのかも知れない。それはまた、大量破壊兵器の制御、管理に関わる安全性においても同様のはずだ。
リセットの危機は、予言の中だけで語られるものでは決してないといえるだろう。

参考文献 
理学博士、フジタユウコウ著、96年「脱原発のエネルギー計画」
神戸大学都市安全研究センター教授、イシバシカツヒコ著、
97年10月号「科学」

<追記>
原子力発電のスペシャリストにいわせれば、現在の電力需用は、原発に頼らずとも、未稼働の火力発電を利用すれば、十分にまかなうことができるものであるという。
にもかかわらず、我々は、電力供給においては原発が必要不可欠であるかのごとく何者かによって刷り込まれている。
そこにあるものの正体とは、既得権に執着するエゴ丸出しの政治と陰謀、そして、何といっても、真実に目を向けようとしない愚かな大衆のエゴである。
もっとも、火力発電を稼動させるためには京都議定書という壁が立ちはだかっており、我々は逃れようのない袋小路へと追い詰められているのかもしれない。

参考
2002年12月3日(火)
京都府保険医協会理事会                      
「原発廃止に向けて」
京都大学原子炉実験所  小出 裕章氏の講演より
http://www.kisnet.or.jp/net/koide.htm

続編No.5<災害と科学>

「眠れぬ夜に思うこと」を書き上げて、数ヶ月と経たないうちに、列島を記録的な台風が次々と襲い、多くの犠牲者を生み出した。その傷が癒える間もなく、新潟を中心とした大地震が発生した。その爪痕は未だ生々しく、軽率な発言は慎まれる。
しかし、それらが、やがて訪れるかもしれぬ大規模なリセットの足音でないことを祈らずにはいられない。

阪神淡路の大震災は、1995年。鳥取西地震が2000年。そして2004年の新潟地震。これらはいずれも震度6を超える大地震だ。震度5強も併せると、北海道地震も含まれる。また、火山の噴火だけでも、2000年の有珠山、三宅島、そして2004年の浅間山を挙げることができる。
確かに、個々の地殻変動の規模は、周期的なもので、特別視する必要はないかもしれない。しかしながら、私が問題にしているのは地震のエネルギーを指す「マグニチュード」ではなく、実際に人が感知するところの「震度」である。多くの方々が、これほど短期間に大規模な振動を体感している事実には、過去に覚えがない。

大雨による大洪水、広範な生活圏が急激な浸水に見舞われた大水害は、1998年の高知県水害、そして2004年の福井県での水害、台風23号に伴う被災がある。

私が学生時代を過ごした土地が上記に含まれている。水害時、私がかつて暮らしたマンションは二階まで浸水し、住人は三階の廊下に非難して救援の到着を待ったという。翌日、郵便ポストの上にひっくり返った自動車を横目でみながら、私の友人は泳いで勤務地である病院へ向かったのだそうだ。途中、救助のヘリコプターが幾度となく安否を気遣って近づいてきたという。新車を購入したばかりの後輩たちは、皆、その車を廃車にせねばならなかったという気の毒な話も聞いた。
洪水の最中、バスの上に取り残されて一夜を過ごした方々。テレビで観た映像はショッキングなものだった。発展途上国ならいざしらず、先進国でこうした光景を目撃することになろうとは思ってもみないことであった。
以上は、たった10年の間に起こった天災だ。かつてこれほど大規模な災害が、これほど短期間に集中して起こった事実を私は知らない。

一方、かつて伊勢湾台風の死者は数千人規模であったのに対し、今年(2004年)のそれは100人程度にとどまっている。これは、科学文明の発展、即ち国土開発による治水や、建築技術の進歩が寄与したものという見方もできないことはない。医学の発達もまた幾多の病を克服し、数多くの命を救ってきたということができる。
もっとも、私は個々の災害の犠牲者数に影響を与えるパラメータを議論したいわけではない。巨視的に観て、昨今の自然災害と同程度の災厄を発展途上国が経験したとすれば、おそらく、現在のような犠牲者数ではすまなかったであろうということだ。
これこそは科学の効用であり、恩恵である。

他方、昨今の異常気象が、この科学文明の営みによってもたらされているかもしれないという認識は、日々科学の恩恵にあずかっている我々にとまどいを与えずにはおかない。しかしながら、科学が我々の実生活に寄与しているのは確かな事実であり、これを全否定してしまうことはできまい。

結局、我々が被っているのは一人ひとりが育んだエゴの産物ではないだろうか。科学そのものが悪とはいい難いのだ。
つまり、問題は科学にあるのではなく、それを扱う人の側にあるということだ。今更科学を否定した自然主義の復古を解決策に見出そうとするのはナンセンスだと私は思う。
ならば、人のあり方をこそ追求すべきだろう。

個々の自然現象に関する微妙な位相差は、地球上で暮らす我々には、とてつもない脅威になり得る。マクロ視点では些細な変化も、そこに暮らすミクロな我々にとっては重大問題だ。確かに、近年の異常気象や地殻変動は、個別に見れば異常を騒ぎ立てる必要のないものかもしれない。
しかし、そうした異常が短期的に重なり、災害の種類によらず、これを身近に経験する方々が急増していることは紛れもない事実である。そこに多くの方々が、未来に対する漠然とした不安感を抱きつつあるのも事実だろう。こうした、多人数が共有する漠然とした「感じ」は、英米流の議論スタイル、即ち理性偏重の視点では却下されてしまう論拠ではあるが、私はこの理性の働きに限界を感じ、悟性と感性による相互補完によって、認識力の向上を図れるのではないかと期待している。それ故、こうした「感じ」においても、何かの意義は見出せるのではないかと愚考する。つまり、リセットの危機は杞憂では済まされないかも知れないということだ。

したがって、被災の遠因が人の営みによって導かれているとすれば、その分析と対処には時をおく必要があるまい。むしろ、起こってしまった現状、「今ある姿」にのみ視野を限定するのでなく、直ちに「あるべき姿」を実践していかねば、災害はこの規模にとどまっていてはくれないかもしれない。
天災の類を黙示録になぞらえて、いたずらに人々の不安を煽る立場には感心しない。しかし、現実は現実として目を背けておくことはできず、将来起こり得る可能性に向けて、早急かつ継続的な、具体的対応が必要であろう。
地球は、そのささやかな身じろぎによって我々に何かを伝えようとしているのかもしれない。その囁きに対しては、理性の営みだけで応じるのは不十分であり、やはり、己の悟性と感性を研ぎ澄まさなければ、真実を見誤ることになりはしないだろうか。
天災は多くの犠牲者を生み出す傍ら、災害時の人命救助や被災地での救済活動には、その営みに神の煌きを垣間見せる奇跡の瞬間でもあると私は思う。結局、災害も科学も、これらを一概に悪とみなすことはできず、常に二面性があるといえよう。

続編No.4<リセットの顕現>

始まりのあるものには終わりがあり、リセットは歴史の必然である。
我々にとって、もっとも確かな事実とは、致死率100パーセントである。
生まれし者は皆等しく死す定めにあり、なんぴともこれに抗うことはできない。
しかしながら、多くの現代人が、その事実を忘れてしまっている。

科学は、存在の入れ子構造を解き明かした。
我々の住む世界は、そのもっとも小さな構造も、もっとも大きな構造も、基本的に皆等しい。
原子核と電子にみられる構造は、太陽と惑星にもみられ、果ては銀河系にもみられる。
同じことだが、人に死が訪れるように、国や、文化、文明にもリセットは訪れる。

霊的存在としての自由は、我々に死すべきときを選ぶ権利を与えている。
現世に生きる我々は、ただ、それを忘れてしまっているだけのことだ。
もっとも、智性のある者だけが、それを知りうる。
予兆はすでに始まっているのだ。

より小さなリセットは、我々をいつでも待ちうけている。
リセットのサイズは、経験する主体によってまちまちなのだ。
死と再生の転換点。
他ならぬ我々が、リセットの到来を待ち望んでいるといえるだろう。
それは遠い過去に交わされた尊い約束でもある。

唯一の救いは、最大単位のリセットですら、最小単位のリセットを超えて訪れることはないということだ。
誰にとっても、個人の死を超えて訪れるリセットなぞ存在しないという意味である。
霊的進化にとって、好ましいリセットとなるか、好ましからざるリセットになるか、鍵は我々一人ひとりが握っているのだ。

続編No.3<ラフスケッチ>

風景画を描く場合、才能がなくても、まずまずの作品を仕上げるためのコツがある。
近景、中景、遠景に対象物を配置した構図を決め、全体のバランスをとりながら、それぞれのラフスケッチを行うことだ。
この際、複雑な形状を呈する対象の細部に、目をやってはならない。
あくまで、全体図の中で、個々のバランスをとることが重要だ。

子供の写生にありがちな失敗は、細部の描写に気をとられるあまり、構図のバランスが損なわれ、つじつまを合わせるために対象の形が歪みきってしまうことにある。
個々の対象物の位置関係を明瞭にし、バランスをとってから、ディテールを描き込むのが、失敗しないコツである。

巷にありがちな議論における過ちの多くは、子供が写生に失敗する様とよく似ている。
ディテールの考察は鋭利にして、よく調査が行き届いているようには見えても、全体のバランスという点で歪であることが多い。個々の論考では筋が通っていても、全体を一つに束ねると、論理が破綻している様を目撃することしばしばだ。
その理由は、多くが、真理という名の構図の基点を持たず、細部の相互関係にのみ、目線が囚われてしまっているからだ。

絵の描き方を知らない子供は、樹木一本判然としない大人の描くラフスケッチを見て、あざ笑うことだろう。しかし、そのラフスケッチの有無こそが、後の仕上がりを大きく左右する事実を知らないだけの話なのだ。

私にとって「眠れぬ夜に思うこと」は、まさにラフスケッチであった。しかし、ラフスケッチのままで終わらせてしまうつもりはない。全体に配した個々の対象を描き込む作業は残されたままだ。本ブログでは、そこに挑んでみたいと思う。

続編No.2<葛藤の理由>

なぜ、エゴと愛とのせめぎあいが現世に用意されているのか。
これは、そもそも「存在する」とはどういうことなのかという疑問に通じるかもしれない。葛藤のない状態とは、存在しないのと同じことではないだろうか。
例えば、いかに深い愛情をその心に育んだとしても、山中にひきこもって俗世と関わりを絶ち、これを表現しないのなら、存在しないのと変わらない。
隠遁者として生活し、他人と深い交わりを持つことなく生きれば、己が心の安寧を維持するのは容易いことだろう。けれども、そうした生き方を万民が真似するわけには行くまい。そんなことをすれば、社会が成り立たなくなってしまうからだ。

勿論、隠遁生活や放浪生活の中から、何かの悟りを得るのは大切なことではある。
けれども、そうして得た悟りを現世で実践することにこそ、私は意義を見出している。
また、それが一番困難な行ではなかろうか。
その手を実社会におき、その心を滝にうたせる生き方にこそ、価値があるはずだ。
なぜなら、いかに優れた悟りも、表現されなければ存在しないも同然だからだ。

神は存在そのものであるため、その本質たる愛が表現されるのと同時に、エゴもまた表現されるのだと解釈されよう。つまり、エゴとは愛を表現するための道具に過ぎないということだ。愛もエゴも、他者との関わりの中で表現されるものであるため、存在するもの全てが、こうした葛藤と無縁ではいられまい。その意味では、人間は神の動的性質が強く顕れた存在であるといえるかもしれない。

結局、我々が「存在する」ということは、「葛藤する」という動的現象として顕れるものだといえる。これを「諸法無我」と表現しているのが仏教ではなかろうか。

一方、その葛藤から生じる苦しみを救う存在もまた、己自身を含めた「有りて在るもの」即ち神である。
我々が裡なる神性を強めるならば、互いの存在が、誰かや何かににとっての救いとなるはずだ。それこそが、真の救済といえるだろう。