ついに、来ました。
9月の終わりです。明日から10月になる。
10月1日から煙草が値上がりします。それを機に、僕は禁煙しようかと思っています。
禁煙? いや、煙草をやめるつもりです。
喫煙歴は、20年。最高の禁煙記録は2ヶ月。それ以外はずっと毎日吸ってきました。
それが、終わりを告げようとしています。
いまの気持ちは、不安とか、期待とか、まったくありません。何も、思っていません。「できるんじゃないか」とか、「どうせ駄目でしょ」とか、そういう気持ちがまったくありません。
現実感がまったくない。
いままで何度も禁煙に試みてきました。禁煙に関する本も読んだし、禁煙外来にもいきました。何をやっても駄目だった自分。
それを明日、変えたいと思う。
煙草との付き合いは、恋人よりも長い。
憂鬱な気持ちを慰めてくれ、時にはやる気を奮い立たせ、励ましてくれた煙草。
交わした口づけはやはり恋人よりも多い。
朝起きて一服。ごはんを食べたあとの一服。仕事前の一服。休憩時間の一服。仕事終わりの一服。寝る前の一服。
さまざまな思い出を辿ってみる。
はじめて煙草を吸ったのは中学生のころで、そのときはまだ、煙草の味が分からなかった。まずかったし、体に悪いと思っていた。熱までだした。
習慣化したのははじめての恋人と別れたときだ。
そのときの恋人は高校生のくせに煙草を吸っていた。マイルドセブンだった。その恋人と僕は初めてのキスをした。
「煙草の味がするから……」と、彼女は言っていた。
別れたあと、その、煙草の味と、舌の感触を切ないほどに求め、僕は煙草を吸うようになった。
「覚えたての煙草をふかし、星空を見つめながら、自由を求め続けた、十五の夜」と、尾崎豊は歌う。
煙草はもう、時代遅れなのかもしれない。
例えば70年。
ふと、70年代を舞台にした海外ドラマをみた。そこに出てくる男性はみな煙草を吸っていたし、職場に灰皿もあった。
大人の男は煙草を吸う、という、僕が子どものころに描いていた大人像がそこにはあった。
時代は変わり、いまは2021年。
煙草は社会からはぶかれていった。
煙草を吸うことがかっこいいだなんて、誰も思わなくなった。むしろ、ダサくも見える。
公の喫煙所なんて、なかなかない。
飲食店はほぼ全て全席禁煙だろう。
そういえば愛煙家が国に対して訴訟してたっけな。損害賠償200万だかの訴訟。よくやるなと関心しつつ、「国は悪くない」と思う自分がいる。
「明日から本当にやめるのか?」自分に問いかける。
心から「やめる」とは言えない自分がいる。やめられたら幸いだけど、やめられなかったらいつもの日常に戻るだけだと思っている。
「でもそんな、いつもの日常がいやだったんじゃないの?」
正直なところ、いやな思いばかりではない。いい思い出もあった。だから、手ごわいのかもしれない。
一日のなかで、「ああ煙草を吸いたいな」と思うときはしょっちゅうある。「煙草を吸えば、気分転換になる」「リラックスできる」「がんばれる」「頭痛も治る」「楽になる」。
快楽について考えた。
煙草は、快楽の一種だと思う。
体にとって必要なものではないが、煙草を吸うことで、脳が心地よく感じていることは否めない。
でも、快楽って、必要なんだろうか。
日々の生活の中で、快楽って、必要なんだろうか。
それがなければ生きていけないほどのものなのだろうか。
なんだか違う気がする。
なら、煙草をやめてもいいんじゃないかと、思う。
煙草を吸う人は、吸わない人よりもマイナスの位置にいる。それは事実だ。プラスの快楽ではなくて、マイナスを埋めるための快楽なのだ。
だったら、何もない方がましである。
例えば愛用のライターを僕は持っている。そのライターに愛着もある。もちろん煙草の銘柄にも愛着がある。
「あなたは、私がいなきゃだめなの」
そんな、依存する関係なら、別れた方がいい。
「私は、あなたのパートナーだよ」
確かにそうだった。いつもそばにいたし、裏切りもしなかった。救ってもくれた。煙草がくれる安心感は、誰よりも知っている。
「別れるの?」
別れたい。
僕はひとりでちゃんと自立して生きていきたいし、失ったものを取り戻したい。
失ったもの。
煙草と付き合ったことで、失ったものは大きい。
そしてきっと、やめることによって得られるものは、もっと大きいだろう。
だから僕は煙草をやめたいと思う。
たぶん、明日、僕は、禁煙に失敗するだろう。いつものとおりに、煙草を箱から出し、火を点け、煙を吸うだろう。
それでもいまの僕は、「明日から煙草をやめる」と決めている。
さよなら私の恋人よ。
さよなら私の友人よ。
さよなら私のパートナー。