Andanteの余白 - Sotto Voce -

Andanteの余白 - Sotto Voce -

Sotto Voceは「声をひそめて」「ささやくように」という意味。
気持ちとか、考えとかメインブログよりも多少パーソナルなことを書いているブログです

日本は戦争に負けた。他国の属国となることはなかったが、その代わり連合国は日本に進駐するという形をとった。

 

 

マッカーサーは連合国最高司令官として1945年から1950年まで日本を占領し占領政策を行うとともに民主化を進めた。

とにかく力をもっているのは進駐軍だったそうだ。東京にあった大きなお屋敷はすべて接収されそこはアメリカやイギリスの将校たちの住まいや施設になったという。



・・祖母に何通もラブレターを残して去ったアメリカ軍将校キャプテン・ピアーズがマッカーサーの副官として日本に来たのは

マッカーサーが厚木飛行場に降り立った時かそれともそのあとだったか、母も覚えてはいなかったらしいけれど。



キャプテン・ピアーズは母の祖父・・私の曽祖父の家で行われる舞踏会の常連だったという。

 

 

 

そして日本的風貌の祖母を好きになったそうだ。

 

大叔母たちと違って英語はあまり得意でない祖母のために、日本語の達者なピアーズ氏はラブレターをローマ字で書いたものさえ残していた。

 

 

日米の関係が悪化しピアーズ氏が帰国を余儀なくされたとき、短い惜別の思いを託した手紙は英語だったそうだ。

 

母はもうまとめて始末した、と言っていたが取っておけば良かったのにな、と私はちょっと思った 笑




ピアーズ氏が祖母や母たちを見つけ出してくれたのは敗戦から2年がたとうとしていた時だったらしい。

 

 

進駐軍の胸にピカピカの階級章などを付けた軍人が小さな社宅にレーション(支給品)の中からコーンビーフ、オイルサーディンなどなど栄養のありそうなものをせっせと運んでくれたという。

 

将校たちが行く高級日本料理のお店にも連れて行ってくれたのだそうだ。



       


戻ってきたピアーズ氏は昔のイギリス将校仲間にも連絡してくれ、イギリス軍に接収されていた今は一般公開されている旧古河邸のパーティーにも招かれたそうだ。

 

必死で祖母からマナーを教わって母はやっとの思いでついて行った、と苦笑いしていた 笑

      

 

 

ピアーズ氏に誘われた食事に出る前のひと時、祖母と母は帝劇の向かいにあったGHQのピアーズ氏の執務室で待っていた。

 

その時、その執務室に大きな人が入ってきたそうだ。

 

 

 

 

待っている祖母と母を見て「ハ~イ」といったから母も「ハ~イ」と手を振ったそうだ。

 

 

その時は普通のパイプを持っていたから、それがマッカーサーであるとは気づかずちょっと二言三言祖母と話して手を振って帰っていく彼に母はまた手を振ったのだ、と。

 

 

あとで祖母にマッカーサーよ、って言われびっくりしたと母は言っていた。


朝鮮戦争が起こりマッカーサーは日本を去った。ピアーズ氏も去る時に祖母にも一緒に来てもらいたい、と言ったそうだけど祖母は断ったらしい。
 

 

 

綺麗だと、戦後の混乱の最中にあってもこんなにもいい思いが享受できるのか・・と私には衝撃だった。

 

 

わざわざ敗戦後2年という時間をかけて祖母を見つけ出してくれたこと、食糧などを困らないようにしてくれたこと

 

お食事会やパーティーなどにも連れ出してくれて煌びやかな扱いをしてくれたこと・・驚きでしかない。

 

 

 

 

 

祖母は晩年も老人会の男性たちに大人気であった。

 

祖母は地元の老人会になど滅多に出なかったが、祖母が老人会を欠席するたびに家に男性の長蛇の列ができお饅頭やお煎餅など、老人会でのお土産をせっせと運んでくれた。

 

 

昔、家によく来て家のお手伝いをしてくれるおじいちゃんがいた。祖母の手足のように庭の木の剪定から芝生の整備から何から何までしてくれていた。

 

家にはお手伝いさんがよく来ていたのだが、最初は男性版のお手伝いさんかと思ったくらい。

 

 

そのおじいちゃんは「○○さん(祖母」のファンです」と言っていて、当時小学生だった私は祖母が本当に仲のいいお友達なのだろうと思っていたのだが

 

大人になった今考えるときっと違うと思う 笑

 

 

私の最初の茶道のお師匠様の旦那様も私の祖母のファンである、と公言して憚らなかった。

 

私は全くそうは思わないのだけど、旦那様は私を祖母にそっくりだ、と言い私のお稽古の時には必ず茶室に遊びに来た。

 

 

 

・・・お師匠様はどう思っているのだろう、と私は気が気ではなかった。

 

 

 

祖母はお茶と押し絵、ちぎり絵を教えていた。

 

私が20になった時に、茶道は必ずやっておいた方がいいという祖母の言葉でお師匠様のところに通うようになった。

 

 

 

 

祖母は綺麗なだけではなく、人当たりがとても良かった。穏やかな笑顔で人の話を聞くのが上手な人だった。

 

 

小さな頃は分からなかったけど、高校生くらいになって気づいた。

 

 

祖母はただ笑顔で話を聞いているだけではなく、大きなリアクションや適切な合いの手などで相手の話を引き出すのが上手なのだ、と。

 

そして適切な合いの手は、馬鹿では入れられない。

 

どんな話にも対応できる深い教養がないとできないことなのだ、と改めて祖母の存在感、偉大さに圧倒された。

 

 

自分の知識をひけらかすタイプの頭の良さではなく、どんな話にも対応できる受け身の頭の良さ。

 

人は、自分の話をする人よりも、自分の話を聞いてくれる人、自分に気持ちよく話をさせてくれて共感してくれる人に好意を持つものだ。

 

 

ピアーズ氏もそうだったであろうが、ハイスペック男性ほどその傾向は高い気がする。

 

 

 

 

祖母は私が小学生に上がった頃から

 

 

「Nonちゃん、女の子はいつも身綺麗にしていなさいね。身綺麗にしていると周りの皆様が助けてくださるから」

 

 

とよく言うようになっていた。

 

 

背筋が曲がっていると長い物差しを背中に入れられた。「お行儀」を叩きこまれた。

 

国際交流のボランティアに一緒に参加して、親・学校の先生以外のたくさんの大人の方や様々な価値観を持つ海外の方と交流する機会を小学生の頃から与えてもらった。

 

・・昔は舞踏会やパーティーで社交性を培ったのであろうが、その時にはそんな機会を持つような身分ではなかったから

 

民間の国際交流のような、海外の方々と触れ合えるところで私の社交性を磨く機会を与えてくれたのだろう。

 

 

 

 

その他もいつも口角を上げていなさいね、とか、踵を綺麗にしなさいね、とかそれって綺麗と関係あるのか?と思うようなことをよく言われたが

 

それはきっと「感じよく、綺麗に振る舞う」ことや「綺麗とは表面だけのことではない」ということのマインドを教えてくれていたのかな、と思う。

 

そんな祖母の踵は晩年までつるつるだった。

 

 

 

祖母は私の誕生日に必ず宝石をくれた。家に宝石商の方が来て、誕生石であるパールを毎年見繕ってくれた。

 

私がアクセサリー作りが好きなのはその影響もあるのかな、と思う。

 

 

 

 

 

私は祖母ほどの美人ではない。

 

・・というか全く美人ではない。どちらかというと面白いオカメ顔である 笑

 

 

でもそんな私の特徴のない外見を補って有り余るくらいに、祖母の教えてくれたことは今私の人生を彩ってくれているな、と最近しみじみと感じている。