昭和16年、福治は海軍航空隊予科の試験に合格し、予科練習生となった。
いわゆる「予科練」である。
予科練甲飛11期の入隊であった。11期までは倍率50~70倍といわれる難関であったそうだ。(12期以降は太平洋戦争が始まり大量増員で事情が変わったようだ)
福治は戦時中の軍人としての自身の歩みを親兄弟また家族にも多くは語らなかった。非常にまれに断片的に体験したことをポツポツと話したのみである。
入隊後は鹿児島航空隊→霞ヶ浦航空隊→高雄(台湾)航空隊→松山(四国)航空基地との軌跡であったようである。
搭乗していたのは九七式艦上攻撃機(97艦攻)、
最終的な階位は上等飛行兵曹であった(と記憶しているが…少し自信がない)
高雄以降が実戦であったという。この高雄時代、福治は膝に大怪我をしたというが、詳細は聞いたことがなかった。
福治が実戦に出たのはおそらく昭和18年以降であったと思われる。
そのころ日本は飛竜、蒼龍、加賀、赤城など主要な航空母艦を既に失っていたのだが、名称は失念したがいずれかの残存空母に搭乗したことがあったという。
空母での生活の話で断片的にだがよく聞いたのは、
兎に角軍隊生活では起床、消灯、食事、掃除など時間に厳しく、規律違反があれば班全員が精神注入棒(ケツバット)や鉄拳制裁を喰らったこと、
普段から整理整頓、武器の手入れに余念がないのは、ひとたび戦闘になったとき何がどこにあるか直ぐに準備できたり使用できるためであったことなどで、
それ故、福治は後年自分の仕事場、道具の手入れ整理整頓は常に怠らなかったのは、この軍人時代叩き込まれて習慣化した「準備おさおさ怠りなし」の精神のおかげだったのだろう。
また海軍体操や手旗信号などに関しては話だけでなく、私が幼少の時分には、「やってみれ!」と訳も分からないままに練習させられたこともあった(笑)。
父、福治の戦時中の話で、わたしの印象に残っているものが二つある、
一つは、晴れた日の瀬戸内海を飛んでいた時のこと、「本当に今戦争をしているのだろうか?」と思うほどに空の青、海の青、雲の白、山の木々の緑が美しくしばし見とれてしまうほどだった。戦時、任務中のほんの数秒感じた束の間の安らぎ、それほど美しかった…
今一つは、「実戦で目の当たりにするまでは、撃墜されて海に落ちるとそのまま海に沈むのかと思っていたら、落とされた機体は海面に到達するや“パンっ”とはじけ跳びバラバラになってしまった。あれを見たときは驚いた…」
というものだ。
いづれも実際に戦場を経験したものでなければ感じることができないことのように思える。
そういえば一時体重が60kgを越えてしまいそうになり、上官から「減量しないと鳩部隊(通信部隊)にまわすぞ!」と怒られた、という話もあった。
それでも戦闘については詳しく語ったことはなかった。話したくなかったのかもしれない...
今に思えば生前にいろいろ聞いて於きたかったものである。
福治は生前幾度となく「俺が死んだ後、空に鷲が舞っているなら、それを俺だと思え」と言っていた。けっこうロマンチストだったのである。
昭和20年5月、四国松山航空基地、福治にとって運命の時が迫っていた。







