いじめられている君へ。
何度も何度も心を傷つけられて、苦しいよな、つらいよな。
体の傷と同じで、心の傷も、一度殴られたくらいなら、
すぐに瘡蓋(かさぶた)になって治るけど、
何度も何度も傷つけられたら、
痛くて痛くて、死にたくなるよな。
しかも、体の傷なら、病院で診てもらう事が出来るけど、
傷ついた心は、誰にも見せられないんだよな。
「回りに言え」って、大人達は言うけど、
言った瞬間に、君は「君」じゃなく、「いじめられっ子」になってしまって、
よけい惨めな思いになるから、言いたくても言えないんだよな。
分かる…分かるよ。
そんで、自分の本当の気持ちを誰にも言えなくなって、
もっと苦しくなって、いつしか、そんな自分がキライになる…。
でも、もしも君が何かの縁でこのページを読んでいるのなら、
まずは、自分を嫌いにならないで欲しい。
いじめられている自分の弱さを責めないで、
生きることから逃げなかった強さを、
もっとほめてあげて欲しいんだ。
引きこもりになってしまったとしてもいいんだ。
「死」に逃げないで、「生きる」という選択をした事に、
もっと誇りを持って欲しいんだよ。
そう、君は、アイツらなんかに負けちゃいないんだ。
部活やクラスメイト、放課後の楽しい会話…。アイツらは君から、大切な物をいくつも奪っていった。でも、君の「未来」っていう、一番大切な物を、君は自分の手で守ったんだよ。
それは、この世界で、一番大切なものなんだ。
それを守るためなら、学校なんか行かなくったっていい。
学歴や、クラスメイトの評判…色々と気になる事があるかもしれない。
でも、それらのいったいどれが、君の「将来」よりも大事だって言うんだ。
君は、学校に行くために生まれてきた訳でも、いじめられるために生まれてきた訳でもない。
君は、君の人生を生きるために生まれてきたんだ。
だから、君らしく生きるために、心が放つ、
僅かな「光」だけを、ただまっすぐ見つめるんだ。
それは、君がアイツらから守った、宝物だ。
光が見当たらないかもしれない、でもそれは厚い雲が心に立込めていて、見えてないだけさ。
雲が消え去るまで、焦らずじっくり待てば良い。
やがて雲が消え、光が見えたなら、その光が、一番強く光る場所へと進むんだ。
その場所こそが、君が生きるべき場所だ。
その場所では、君は誰よりも輝くだろう。そして、その時に初めて、
「今」という「かけがえのない瞬間」を愛する事が出来るはずだ。
でもその場所は、誰も知らないんだ。
僕も、君の親も、そして、君自身ですらもね。
その場所は、君の心だけが知っているんだよ。
傷つきながらも、なんとか守ってみせた、そして、
輝きたくてウズウズしている、君の心だけがね。
地球がまだ真っ平らだった頃の、
東の果てとされたこの国で、僕は異国の女(ひと)を見た。
彼女が引く篭(かご)の中には、光。
西と東の美しさを讃える、神秘的な光。
人は、それだけでは波打つ大洋を渡る事も、
広大な砂漠を越える事も出来ない。
でも、愛する事で、距離など意味を無くすのだ。
”光”には、海も、大陸も、国境も無いように、
”愛”は、この世界を越えて、どこまでも行けるのだ。
過去に生きた、何億もの人々が夢見た未来の、
一番進んだ”今日”という日に、私は喪服の人を見た。
悲しみに暮れる彼の前には、船。
今につながる、過去を生きた人々の名が刻まれた、
石で作られた時の船。
人は、現実には過去に戻る事は出来ない。
でも、想う事によって、今を生きる人は、
あの人が生きた過去へと戻る事が出来るのだ。
”時の船”が、朽ち果てる事無く、時の流れを下るように、
”想い”は、時を越えるのだ。
過去と未来の間に横たわる相対性理論。
過ぎ去った”過去”を”今”にするためには、
”光速”を越えなければならないという。
”光”が”今”で、その速度を越えて、”時の船”が導く先が”過去”ならば、
”愛”も”今”であり、それを越える”想い”もまた”過去”なのだ。
そう、今、精一杯、愛すのだ。
”想う”のではなく、”愛す”のだ。
今しか愛せはしないのだ。
そして、いつかの夕暮れに、いつかの”愛”を”想う”のだ。
それが、生きる意味なのだ。
そうだ、僕は生きるのだ。
東の果てとされたこの国で、僕は異国の女(ひと)を見た。
彼女が引く篭(かご)の中には、光。
西と東の美しさを讃える、神秘的な光。
人は、それだけでは波打つ大洋を渡る事も、
広大な砂漠を越える事も出来ない。
でも、愛する事で、距離など意味を無くすのだ。
”光”には、海も、大陸も、国境も無いように、
”愛”は、この世界を越えて、どこまでも行けるのだ。
過去に生きた、何億もの人々が夢見た未来の、
一番進んだ”今日”という日に、私は喪服の人を見た。
悲しみに暮れる彼の前には、船。
今につながる、過去を生きた人々の名が刻まれた、
石で作られた時の船。
人は、現実には過去に戻る事は出来ない。
でも、想う事によって、今を生きる人は、
あの人が生きた過去へと戻る事が出来るのだ。
”時の船”が、朽ち果てる事無く、時の流れを下るように、
”想い”は、時を越えるのだ。
過去と未来の間に横たわる相対性理論。
過ぎ去った”過去”を”今”にするためには、
”光速”を越えなければならないという。
”光”が”今”で、その速度を越えて、”時の船”が導く先が”過去”ならば、
”愛”も”今”であり、それを越える”想い”もまた”過去”なのだ。
そう、今、精一杯、愛すのだ。
”想う”のではなく、”愛す”のだ。
今しか愛せはしないのだ。
そして、いつかの夕暮れに、いつかの”愛”を”想う”のだ。
それが、生きる意味なのだ。
そうだ、僕は生きるのだ。
都会の花は夜、路地裏に咲く。
薄暗いオレンジの明かりに照らされて。
とりあえず、生を一杯。
蕾がだんだん花開く。
四坪ほどの店内で、色とりどりの花が咲く。
夢を語れば七色の、愛を語れば薄紅色の花が咲く。
愚痴でも花は咲くけれど、嫌いな色の花が咲く。
だから今夜は、きれいな色した花咲かそ。
こんな時代に咲かせたい、明日の色した花咲かそ。
今夜開いたその花は、いつかはきれいな実を結ぶ。
薄暗いオレンジの明かりに照らされて。
とりあえず、生を一杯。
蕾がだんだん花開く。
四坪ほどの店内で、色とりどりの花が咲く。
夢を語れば七色の、愛を語れば薄紅色の花が咲く。
愚痴でも花は咲くけれど、嫌いな色の花が咲く。
だから今夜は、きれいな色した花咲かそ。
こんな時代に咲かせたい、明日の色した花咲かそ。
今夜開いたその花は、いつかはきれいな実を結ぶ。
しんと静まり帰った食卓。
暖かい白米とは相反する冷たい空気がテーブルを包む。
そのテーブルには、僕と向かい合った父と母。
まっすぐ前を向いているが、目線の先は互いの左側。
無言の食卓。
テレビの人工的な笑い声がやけに空しい。
食器と箸がぶつかる音は、まるで剣と剣がせめぎあっているかのような緊張感。
僕は、学校での失敗談をおどけて話し、道化を演じるが、
目の前にいる二人の客はくすりともしない。
どうやら、僕は、道化には向かないようだ。
僕は、白米を半分以上のこして席を立った。すると、目の前の客もすぐに席を立ち、
一人は自室へ、もう一人は台所へと向かった。
ばかげている。
最初から二人とも食べるつもりで食卓を囲んではいなかったのだ。
僕のための冷たい食卓だったのだ。
その証拠に、テーブルには唐揚げがほとんど手を付けられずに残されている。
こんな馬鹿げた芝居は、もうたくさんだ。
「子供騙し」にもなっていない低級な芝居を、
大人達はどうして打とうとしたのだろう。
僕のため?
そうであれば、目の前の僕を騙せなかった大人達は、
道化失格の僕と同じで、役者失格だ。
駄目な役者と、駄目な道化が騙し合うその様は、
他人から見ればさぞ滑稽だっただろう。
そうか、テレビから聞こえてきた、あの空虚な笑い声は、
僕たちを見ての笑いだったのかもしれない。
もう今日はいい加減疲れた。
一人、湯船につかる。
夕食の時とは違い、温かな静寂が僕を包む。
そして、二人の役者の事を考える。
この先も、二人の芝居は続くのだろうか。
続けたいならば、続ければ良い。
終わらせたければ、やめてしまえば良い。
ただ、どちらにしても、その答えは、僕という”客”を満足させる物であってほしい。
そうでなければ、二人は夫婦でも、そして役者ですらもなく、
もはや、ただの詐欺師でしかないのだから。
暖かい白米とは相反する冷たい空気がテーブルを包む。
そのテーブルには、僕と向かい合った父と母。
まっすぐ前を向いているが、目線の先は互いの左側。
無言の食卓。
テレビの人工的な笑い声がやけに空しい。
食器と箸がぶつかる音は、まるで剣と剣がせめぎあっているかのような緊張感。
僕は、学校での失敗談をおどけて話し、道化を演じるが、
目の前にいる二人の客はくすりともしない。
どうやら、僕は、道化には向かないようだ。
僕は、白米を半分以上のこして席を立った。すると、目の前の客もすぐに席を立ち、
一人は自室へ、もう一人は台所へと向かった。
ばかげている。
最初から二人とも食べるつもりで食卓を囲んではいなかったのだ。
僕のための冷たい食卓だったのだ。
その証拠に、テーブルには唐揚げがほとんど手を付けられずに残されている。
こんな馬鹿げた芝居は、もうたくさんだ。
「子供騙し」にもなっていない低級な芝居を、
大人達はどうして打とうとしたのだろう。
僕のため?
そうであれば、目の前の僕を騙せなかった大人達は、
道化失格の僕と同じで、役者失格だ。
駄目な役者と、駄目な道化が騙し合うその様は、
他人から見ればさぞ滑稽だっただろう。
そうか、テレビから聞こえてきた、あの空虚な笑い声は、
僕たちを見ての笑いだったのかもしれない。
もう今日はいい加減疲れた。
一人、湯船につかる。
夕食の時とは違い、温かな静寂が僕を包む。
そして、二人の役者の事を考える。
この先も、二人の芝居は続くのだろうか。
続けたいならば、続ければ良い。
終わらせたければ、やめてしまえば良い。
ただ、どちらにしても、その答えは、僕という”客”を満足させる物であってほしい。
そうでなければ、二人は夫婦でも、そして役者ですらもなく、
もはや、ただの詐欺師でしかないのだから。
私が豚人間であるということは、誰も知らない。
今月から同棲を始めた、彼女でさえも。
豚人間と言っても、”豚から生まれた人間”という訳ではない。
両親は人間だし、私自身のDNAを調べても、
人間という種族である事は間違いない。
では、豚人間とは何か。
それは、”前世が豚であった人間”である。
前世では、豚として、アメリカの養豚場で生を受けた。
兄弟は私以外に八匹いたが、生まれて一ヶ月たった頃に皆母親と離され、
それっきり母親と会う事は無かった。
最初は寂しかったが、兄弟たちとは同じ部屋で飼われていたため、
寂しさも次第に薄れ、逆に兄弟たちとの絆は深まっていった。
自分達が生きている意味や、この先の運命さえも知らずに、
私達は幸せな毎日を過ごしていた。
新鮮な餌を毎日たくさん食べ、昼にはみんなで外で遊び、
夜にはみんなで歌ったりもした。
人間達は私達にいつも微笑んでくれた。
私達も、そんな人間達の事が大好きだった。
あの日までは。
その日も、人間達は軽く微笑みを浮かべて、
私達を一つの扉の前に集めた。
その先に何があるのかは分からなかったが、
とても暗く、恐ろしい匂いがした。
扉が開くと、その匂いの正体がよりはっきりと分かった。
死の匂い。
人間にも認識できるように、固有名詞を挙げるなら、
鉄の匂い。
つまり、
血の匂い。
私は必死に叫んだ。
しかし、叫べば叫ぶほど、人間達は手にしていた鉄の棒で、
私達を強く殴りつけた。
軽く微笑みながら。
扉の向こうの部屋では、大きな機械の音と、
今までの必死の叫びよりも壮絶な、仲間達の死の叫び声が響き渡っていた。
その瞬間、私は自分の運命を悟った。そして、神に祈った。
「あぁ神様、どうか助けてください」と。そして、
「もしもう一度生まれ変われるのなら、豚と人間以外に生まれたい」と。
しかし、神様は一つ目の願いはもちろん、
二つ目の願いも叶えてはくれなかった。
人間として生まれ変わった私は、人間として生きる事を選んだ。
自分の運命に葛藤しながらも、前世で受ける事の無かった親の愛を受け、
文字を読み、複雑な問題を考えて答えを導くという、
知的な喜びを味わう事が出来て幸せだった。
そして、いくつかの淡い恋もした。
やがて、私も大人になり、一人の女性を愛するようになった。
彼女は丸顔で、笑うと涙袋がぷっくりとふくれる、
可愛いらしい女の子だった。
料理が趣味らしく、同棲を始める前にはよく私の家に来ては、
冷蔵庫の中にあった適当な食材で手料理を振る舞ってくれた。
そんな彼女の手料理を毎日食べられる事が、
私が同棲する際に一番楽しみにしていた事でもあった。
同棲して初めての夜。仕事から帰ると、
ちょうど、彼女は料理が盛られた二枚の皿を両手に抱えて、
自慢げに台所から出てくるところだった。
「お帰りなさい、ちょうど晩ご飯できたよ」と言って、
彼女は持っていた皿をテーブルの上に置いた。
それは、豚の生姜焼きだった。
私は、その料理を見た瞬間、豚に戻った。
私は箸を取らず、ただ彼女の顔を見続けた。
”豚”ではなく、”豚肉となった物”を買ってきて、調理し、
美味しそうに食べる、彼女の顔を。
もしも、この世に”虎人間”もいるのなら、そいつを呼んできて、
彼女が私と同じか、それ以上に大事にしている、”ミニチュアダックス”
とかいう、この足下にいる犬を食べてもらいたいと思った。
が、あいにく、そんな知り合いはいなかった。
それどころか、私以外の豚人間さえも知らなかった。
「食べないの」と聞く彼女に、真実を話すべきか迷った私は、
ベジタリアンであると嘘をつく事にした。
ただ、勘違いしないで欲しい。
私は決して人間を許した訳ではない。
むしろ、”豚”として”私”という人生を歩んでいく事を決めた。
そのために、あえて、私は”人間”である事を選んだのだ。
彼女は「最初から言ってよ」と軽く微笑んだ。
あの、養豚場の人間のように。
私も「ごめんごめん」と軽く微笑んだ。
人間に気に入られようとする、豚のように。
私達は結婚して、人間としての家庭を築くだろう。
私が豚人間である事は、自分が死ぬ時に打ち明けるつもりだ。
最後に、彼女と子供達は知るのである。
豚人間の家族であった事を。
そして、死ぬまで考え悩み続けるのだ。
自分達が”何人間”なのかを。
来世では”人間何”になるのかという事を。
今月から同棲を始めた、彼女でさえも。
豚人間と言っても、”豚から生まれた人間”という訳ではない。
両親は人間だし、私自身のDNAを調べても、
人間という種族である事は間違いない。
では、豚人間とは何か。
それは、”前世が豚であった人間”である。
前世では、豚として、アメリカの養豚場で生を受けた。
兄弟は私以外に八匹いたが、生まれて一ヶ月たった頃に皆母親と離され、
それっきり母親と会う事は無かった。
最初は寂しかったが、兄弟たちとは同じ部屋で飼われていたため、
寂しさも次第に薄れ、逆に兄弟たちとの絆は深まっていった。
自分達が生きている意味や、この先の運命さえも知らずに、
私達は幸せな毎日を過ごしていた。
新鮮な餌を毎日たくさん食べ、昼にはみんなで外で遊び、
夜にはみんなで歌ったりもした。
人間達は私達にいつも微笑んでくれた。
私達も、そんな人間達の事が大好きだった。
あの日までは。
その日も、人間達は軽く微笑みを浮かべて、
私達を一つの扉の前に集めた。
その先に何があるのかは分からなかったが、
とても暗く、恐ろしい匂いがした。
扉が開くと、その匂いの正体がよりはっきりと分かった。
死の匂い。
人間にも認識できるように、固有名詞を挙げるなら、
鉄の匂い。
つまり、
血の匂い。
私は必死に叫んだ。
しかし、叫べば叫ぶほど、人間達は手にしていた鉄の棒で、
私達を強く殴りつけた。
軽く微笑みながら。
扉の向こうの部屋では、大きな機械の音と、
今までの必死の叫びよりも壮絶な、仲間達の死の叫び声が響き渡っていた。
その瞬間、私は自分の運命を悟った。そして、神に祈った。
「あぁ神様、どうか助けてください」と。そして、
「もしもう一度生まれ変われるのなら、豚と人間以外に生まれたい」と。
しかし、神様は一つ目の願いはもちろん、
二つ目の願いも叶えてはくれなかった。
人間として生まれ変わった私は、人間として生きる事を選んだ。
自分の運命に葛藤しながらも、前世で受ける事の無かった親の愛を受け、
文字を読み、複雑な問題を考えて答えを導くという、
知的な喜びを味わう事が出来て幸せだった。
そして、いくつかの淡い恋もした。
やがて、私も大人になり、一人の女性を愛するようになった。
彼女は丸顔で、笑うと涙袋がぷっくりとふくれる、
可愛いらしい女の子だった。
料理が趣味らしく、同棲を始める前にはよく私の家に来ては、
冷蔵庫の中にあった適当な食材で手料理を振る舞ってくれた。
そんな彼女の手料理を毎日食べられる事が、
私が同棲する際に一番楽しみにしていた事でもあった。
同棲して初めての夜。仕事から帰ると、
ちょうど、彼女は料理が盛られた二枚の皿を両手に抱えて、
自慢げに台所から出てくるところだった。
「お帰りなさい、ちょうど晩ご飯できたよ」と言って、
彼女は持っていた皿をテーブルの上に置いた。
それは、豚の生姜焼きだった。
私は、その料理を見た瞬間、豚に戻った。
私は箸を取らず、ただ彼女の顔を見続けた。
”豚”ではなく、”豚肉となった物”を買ってきて、調理し、
美味しそうに食べる、彼女の顔を。
もしも、この世に”虎人間”もいるのなら、そいつを呼んできて、
彼女が私と同じか、それ以上に大事にしている、”ミニチュアダックス”
とかいう、この足下にいる犬を食べてもらいたいと思った。
が、あいにく、そんな知り合いはいなかった。
それどころか、私以外の豚人間さえも知らなかった。
「食べないの」と聞く彼女に、真実を話すべきか迷った私は、
ベジタリアンであると嘘をつく事にした。
ただ、勘違いしないで欲しい。
私は決して人間を許した訳ではない。
むしろ、”豚”として”私”という人生を歩んでいく事を決めた。
そのために、あえて、私は”人間”である事を選んだのだ。
彼女は「最初から言ってよ」と軽く微笑んだ。
あの、養豚場の人間のように。
私も「ごめんごめん」と軽く微笑んだ。
人間に気に入られようとする、豚のように。
私達は結婚して、人間としての家庭を築くだろう。
私が豚人間である事は、自分が死ぬ時に打ち明けるつもりだ。
最後に、彼女と子供達は知るのである。
豚人間の家族であった事を。
そして、死ぬまで考え悩み続けるのだ。
自分達が”何人間”なのかを。
来世では”人間何”になるのかという事を。
