※個人的見解です。
今、毎日のようにニュースやネットで報道されている、元少年Aが書いた『絶歌』について。
司書として、この本をどう扱うべきか。
中身を拝見し、被害者遺族へのコメントも読んで思うことは、絶対に彼は反省していない。彼なりの反省をしているのだと思うけれど、それは多くの人に受け入れられないもの。こんな言い方していいのかわからないけど、32歳となった今もなお「異常者」なのだということ。
14歳の頃のことを思い出して書いているとは思えないくらいの鮮明さ。昨日、今日起こったことや感じたことをいかにも美しいことのように書いている。
正直、私はここまで直視できない文章は初めてだった。あまりにも残酷で残忍で吐き気がする。
彼は、どうしても書かないと自分は生きられないのだと言う。
「自分」が生きられないのだ。被害者や家族、世間のことよりなにより、こうしないと「自分自信」が生きられない。こんなにも身勝手な理由で本が出版できるのかと多くの人がショックを受けたであろう。
しかし、ネットで「絶歌 図書館」と検索すればわかるように、「買いたくないけど図書館で読みたい」という意見が多い。
精神科の分野などにおいて、必要だという意見もあれば、もっと良い資料があるから必要ないという意見もある。
では、図書館ではどう扱うべきか。
図書館で本を資料として扱い、保存し提供するにあたって、「図書館法」や「図書館の自由に関する宣言」、「各図書館ごとの規定や方針」等に沿って選書する。
結果として、「絶歌」は所蔵して良い資料となる。
理由を説明する。
まず、図書館には「図書館の自由に関する宣言」というのがあり、憲法を根拠にしている。
そもそも、「憲法」自体がピンとこない方もいるかと思うので、簡単に説明すると、国民の自由や権利を保障するもので、国の最高法規といって法律のトップに値するものが憲法である。
今回の件でキーワードとなるのが憲法で保障されている「表現の自由」と「知る権利」である。(知る権利に関しては、直接的に保障しているとはいえないとする説もある)
「図書館の自由に関する宣言」に、次の通りにある。
(引用)「日本国憲法は主権が国民に存するとの原理にもとづいており、この国民主権の原理を維持し発展させるためには、国民ひとりひとりが思想・意見を自由に発表し交換すること、すなわち表現の自由の保障が不可欠である
知る自由は、表現の送り手に対して保障されるべき自由と表裏一体をなすものであり、知る自由の保障があってこそ表現の自由は成立する。(図書館の自由に関する宣言1)
上記のとおり、元少年Aの表現の自由と、絶歌を読みたいという利用者の意思。どちらも保障されている。
しかし、なんでもかんでも図書館に所蔵して良いというわけではない。
(引用)「提供の自由は、次の場合にかぎって制限されることがある。これらの制限は、極力限定して適用し、時期を経て再検討されるべきものである。
(1) 人権またはプライバシーを侵害するもの
(2) わいせつ出版物であるとの判決が確定したもの
(3) 寄贈または寄託資料のうち、寄贈者または寄託者が公開を否とする非公刊資料 (図書館の自由に関する宣言 第2)
制限することもあるが、今回の場合はそれに値しないという見解を下記の通り日本図書館協会が見解として示している。
(引用)「1.公刊物の表現に名誉毀損,プライバシー侵害の可能性があると思われる場合に,図書館が提供制限を行うことがあり得るのは,次の要件の下においてと考えます。
①頒布差し止めの司法判断があり,②そのことが図書館に通知され,③被害者(債権者)が図書館に対して提供制限を求めた時。(「日図協,各館での主体的な対応を呼びかけ-『文藝春秋』『新潮45』発売にあたって-」)
また、日本図書館協会はツイッターで「絶歌」について見解をツイートしているのでご覧になってほしい。
この通り、根拠となる「理由」を述べてきたが、
①被害者や遺族、その周りの方の配慮はないのか
②税金でこの本を買うことが許されるのか
③未成年など、この本を読んで触発されて新たに事件に繋がるのではないか
など、様々な意見があるだろう。
しかし、あくまでも「図書館」としては上記の通り図書館に所蔵するために「購入し、所蔵すること」は間違ったことではないということである。
購入をやめるためには、①頒布差し止めの司法判断があり,②そのことが図書館に通知され,③被害者(債権者)が図書館に対して提供制限を求めた時。
これが行われて初めて中止することができる。
そこで、図書館のとしての苦肉の策として、下記のような扱いをしている図書館もある。
『購入・受け入れはするが、「貸出し」はせず「館内閲覧」とする』
個人的にはこれが、図書館としてようやくできる配慮であると思う。
今回の件で、様々な面で「法律が追い付いていない」と痛感している。
どういうことかというと、今回のように表現の自由や読みたい意思を尊重する法律はあるが、遺族や本を読むことで読み手になにかしらの影響があることについてはっきりと規制するものがない。
もちろん、「表現の自由」「知る権利」を直接規制する『根拠』は今後一切あってはならない。これらを規制したために、国民の自由が奪われた過去が実際にある。
しかし、中高生などが「絶歌」を読み、触発される可能性があったり、元少年Aのような気質のある者によくない影響を与える可能性は0ではないどころか、ものすごく大きい。「もしも」の域を大きく超えているほどの危険性がある。
これほどのものを、なぜ「販売」したのか。
世に出すにしても、自費出版や出版社が協力するという形で「利益」なく、各図書館に「寄贈」するということもできたはず。
本の内容からもわかるように、元少年Aは恐らく読書が好きである。
本が与える影響もわかっていたはず。
だから、「あえて」販売という形をとったのだと想像できる。
ここまで長々と書いてきたが、なぜ私がこんな記事を書いたのか述べておきたい。
図書館員、司書が独断で受け入れしているわけではないということ。
発売され、増版決定してもなお「検討中」と回答している図書館が多いのは、それだけ図書館員も悩んでいるということ。
正直いって、感情や自分の気持ちに正直に「選書」してもいいのなら、「入れたくない」というのが本音である人間も多いということ。
しかし、結果として図書館の意義は、そこにあるのではなく、だれかにとっての負の遺産もすべて歴史として保存し提供するのが図書館である。
「読みたい」「必要だ」と考えるひとがいる以上、図書館はそうしなければならない。
こんなにも卑劣な資料ではあるが、1つの資料として保管する必要がある。
理解できない方もいるかもしれないが、感情は別として後世に残しておくべき資料の1冊なのである。
引用・参照元
(図書館の自由に関する宣言 )
(日本図書館協会 ツイッター)
(「日図協,各館での主体的な対応を呼びかけ
-『文藝春秋』『新潮45』発売にあたって-」)