私は50代後半に入ってますが、戦争の話しを詳しく聞いたり、
読んだりした事がなかったのですが、最近TVのドキュメントやセミナーを自主的に参加し、

遅ばせながら先ず知る事から始めています。
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『戦火と死の島に生きる』の著者の菅野静子さんはサイパンから8キロ離れたテニアン島に

生後9ヶ月で、ご両親、兄姉と共に移住します。南洋興発の社員が移民募集の際に

立派な学校、病院、商店街の写真のパンフを見せて騙したと著書にはあります。

日本人はこうして色々な未知の国や諸島に半ば騙され移民されているんですね。テニアンは初耳でした
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ところがやっと着いたら無人島。

お腹がすいて、最初にありつけたおにぎりご飯には、ゴマ塩がかかっていると喜びましたが、

何と大きなハエがぎっしり、しかも出目金のように目玉をギョロギョロ。

それでも食べなくては死んでしまいます。

それから彼女の一家は、荒れた土地を次から次へと開発しなくてはならない、地獄の生活が始まるのです。

これこそ日本の漁夫の利?

長いので割愛しますが、無人島を住める島に発展させた訳です。

官僚の子供は靴を履き、彼女は裸足で学校小学校を何キロも歩いて通いますが、時にはムカデを踏んづけたり、

また、天然のハチ蜂の巣がいっぱいで、学校に着く頃には顔がパンパンに腫れた事があったそうです。

お母さんはお団子和菓子店の娘さんだったので、村人にお菓子作りを伝えたり、産婆さんまでしたそうです。

彼女が高校を卒業し、就職すると太平洋戦争が起こり、

彼女は志願看護師になり、たくさんの兵士を看護します。

現場は地獄で、未経験の18才の彼女が腐りかけた兵士の身体からうじ虫を取り出せるのも、

移民の辛さを乗りきったからではないでしょうか?

一番辛いのは妻や子供、年老いた両親を日本に残し、哀しみながら死んで行く兵士を看取る事…

彼女も最後は手榴弾で自決しようとしますが、お腹に重傷を負いながらも、かろうじて助かります。

たくさんの住民を殺害したのもアメリカ人ですが、彼女を死の淵から救ったのもアメリカ人です。

回復してからアメリカの負傷兵も看護していきます。

NYヘラルド、トリビューン紙に"テニアンのジャンヌダルク"と揶揄されましたので、

アメリカ兵に指をさされ、お腹を切るマネをして"腹キリ、腹キリ"とよくからかわれたそうです。

彼女は悔し涙をこぼします

アメーバ赤痢の患者達は裸で寝かされ、しょっちゅう"便器、便器"と要求するのですが、

便器トイレを変えてあげる看護師はいません。彼女だけが一日に何度も変えてあげます。

"便所看護婦"

とあだ名が付いたそうです。でもだんだんと、たくさんの看護師が彼女に賛同していくのです。

内地に帰ってからは結婚、子育てをしながら鎌倉の小学校の先生になり85才の生涯を終えました。

さぞかし立派な教員になられた事でしょう。

又、彼女のご両親のゼロからの開拓のご苦労は測りしれませんが、その中でも移民同士の思いやり

やはり、人間は人間との関わりの中でしか成長できないと思います。

彼女の『戦争メラメラは大和魂で勝てるものではありません。祖国の為に死んでいった人々のことを忘れないで下さい』

が胸に残ります。

日本に原爆を落として、早く戦争を終わらせたと言うアメリカの国民性。すぐ仲良くなる国民性。

降参するくらいなら自決する日本の先人の国民性。

いずれにしても両国とも大量の人間が亡くなっています。

これから大変な世界情勢が待っているようで、息子2人に何をどのように伝えていけるか

毎日思案しています。先ず知る、交流しないと解り合えません。

私の偉大な恩師も中国で将棋杯をわざわざ開催され、徳を積まれています。

外交が下手な日本と非難する前に、

私は外国の方々と日々、交流をもたれて生活されてる皆さんに敬意を払います。