生贄祭祀の起源(その6) | 古代遺跡・クンクン紀行

古代遺跡・クンクン紀行

人間の皮をかぶった城山流三。その正体は野良犬。鋭い嗅覚で 鼻をクンクンさせながら古代遺跡を彷徨しています(「9月出版「数霊の翼」は本題に改題しました)

前号の続きです。(今日も 地味に ブログを書き続ける管理人でございます)

 

御頭祭に捧げられた獣の頭  75頭

白人神社の宮人         75人

古き神社の祭事、 神饌の 75膳

 

これらの「75」は、どういう意味の数でしょうか。

「日本の中のユダヤ文化」)(久保有政著)は、次のように説きます。

 

「75  は イスラエル民族の父祖 ヤコブが 家族とともにエジプトへ移住してきたときの人数とされる

聖なる数である」

 

 サアマリア五書(北王国イスラエルの 10氏族が使っていたモーセ五書)に

「ヨエフは人をやって、父ヤコブと、75人の全親族を(エジプト)に 呼び寄せました」 とあります。 ←  サマリア五書を持つラビ ( いかにも古そうな書物。というか巻物です)

 

 

また、中国・開封は、ユダヤ人の街として栄えたことで有名ですが、このシナゴーク(ユダヤ系の教会)

の宮人も、75人  なのだそうです。

そうなると、 「75」 という数は、サアマリア五書に由来するという説に 管理人も同感です。

 

この75人という 人数が、その末裔たるイスラエル人にとって、栄光の人数であり、誇りとなる人数だったのではないでしょうか。

  

 イサクは、生贄にされる寸前に、神のご加護で命が助かりました。

  そのイサクの子孫である親族75人が その人数の数だけ 羊を生贄として神に捧げたとすれば・・・。75頭になります。

 

 

 はるか遠い昔、聖書を信じて 東にむけて放浪したユダヤ人が、日本にたどり着いたとしたら、

どうなるでしょうか。

 自分たちは栄光の数 75 を きっと忘れなかったのでしょう。

 

(ここからは 管理人の妄想です。)

  ユダヤ人の末裔は

 淡路島に上陸して、初めに洲本に「ユダヤ遺跡」をつくり、阿波に向かったと思われます。そして 

徳島県の吉野川沿いに勢力を拡大し、そして

    白人神社を造ります。

   その白人神社の宮人を 75人として、

    ユダヤ的な神殿 岩境神明神社を造り、

   神社の神前に 祭事・75膳の神饌

      を捧げたと想像できます。

   

そして、さらに諏訪に進出

   御頭祭りの神事 鹿などの獣の生贄を

       75頭 

  奉献したのではないでしょうか。

     になった のではないでしょうか。

  

  しかし、これは 歴史的に 一体、いつ頃の出来事でしょうか。

 

今日はここまで

  ワンワンワン!!