長野県にある五稜郭「龍岡城」

 

五稜郭といえば北海道函館にある、あの五稜郭がとても有名ですが長野県にも五稜郭はあるのです。

 

他の県内のお城に先立って、いち早く国の史跡に指定された龍岡城。

 

どんなお城なのか、歴史も併せてじっくり見ていきたいと思います。

 

  登城記

 

JR小海線「龍岡城駅」または「臼田駅」から徒歩約25分。

 

「臼田駅」からの方が、わずかに近いという情報を得ていたので、今回はそちらからまいります。

 

↑最寄り駅の「臼田駅」

 

小海線の踏切をまたぎ、雄大な佐久平の景色を楽しみながら歩いていきます。

 

 

  みどころ①佐久地方の景色

 

臼田駅から龍岡城までの工程で、目に飛び込んでくるのは素晴らしい佐久地方の景色。

 

お城巡りをしていて駅から徒歩25分となると、なかなかしんどいのですが、ここは別ですね。

 

是非ともこの景色の中を、お城に向かうワクワク感を感じながら歩いてほしいです。

 

↑浅間山を望む

 

↑遥か彼方には北アルプスが。後立山連峰?

 

↑天気にも恵まれ、最高の気分です。これだけで満足してしまいそう。

 

 

25分もかかったかな?五稜郭公園に到着です。

 

龍岡城のすぐ横にある公園。すこし小さいですが、しっかり五稜郭が再現されていますね。

 

それでは龍岡城入り口へ進んでいきます。

 

 

  みどころ②稜堡式城郭を想像する

 

 

さっそく石垣がお出迎え。

龍岡城は真上から見たらしっかり星形をしていますが、地上からは解りにくいです。

その分上空から見た姿を想像しながら歩くという楽しみ方ができます。

この部分は星形の先っぽ部分でしょうか。

 

水堀も現れました。

全域ではありませんが往時の堀も残されているようです。

 

明らかに星形を想像できるポイント!

 

 

あっという間に龍岡城入り口に到着です。

 

城内は現在、田口小学校の敷地(城内の見学は自由)となっています。

しかしそんな田口小学校も2022年度末で廃校となるようです。

 

龍岡城内に小学校が移転してきたのは、1875年の尚友学校が始まりと言われています。

長らく学びの地となっていましたが、その歴史にも終わりがくるようです。

 

 

  見どころ③御台所

 

龍岡城内で唯一の現存建築物「御台所」です。

 

龍岡城は1871年に廃藩に伴い廃城となりましたが、この御台所だけは学校としての使用申請が認められ、長らく学校の校舎として使用されてきたそうです。

 

そして1929年に現在地に移され、江戸時代の雰囲気を今に伝えています。

 

 

 

長野県の五稜郭「龍岡城」

 

江戸時代を感じられる建造物、そして近代的な西洋の築城術が入り混じるその姿。

 

数ある名城を抱える長野県の中でも、特に異彩を放つとても見応えのあるお城でした。

 

 

  スタンプ・御城印

 

龍岡城すぐ横の「であいの館」

 

↑であいの館。龍岡城の資料も展示されている。

 

 

  龍岡城のあゆみ

 

1864年

大給松平氏最後の藩主「松平乗謨」が田野口の地に陣屋の建設を始める。

 

1867年

田野口陣屋(龍岡城)完成。石垣や土塁、城内に御殿を持つ稜堡式城郭であった。

 

1871年

廃藩置県に先立って廃藩を申請。城内の建物は解体され、競売に出された。

 

1875年

城内に尚友学校が移転して学校用地としての使用が始まる。

 

1934年

国の史跡に指定される。

 

2017年

続日本100名城に指定される。

 

現在~

城内の田口小学校廃校が決定。龍岡城は、往時の姿に出来るだけ近い状態に復元・整備される予定である。



浅間山の裾野、標高約600m~800m付近に位置する町「小諸市」
夏は涼しく、冬は厳しい寒さ。ここはまさに高原です。
 
しかしそんな高原にもお城はあり、城下町はあるようです。
 
今回はそんな高原の城下町「小諸」に佇む小諸城へ登城したいと思います。
 
 
JR小諸駅から小諸城(懐古園)までは徒歩ですぐですが、まずは線路を挟んで反対側にある重要文化財「大手門」を見に行きたいと思います。
 
こちらも駅から歩いてすぐ、大手門が残されている大手門公園が見えてきました。
 

 

  見どころ①大手門

 

↑小諸城大手門
 
大手門は小諸城の正門として、1612年に仙石秀久によって建てられたとされています。
 
貴重な現存建築物で国の重要文化財に指定されています。
 
↑二階部分の窓。格子がないので攻撃用ではなく物見用?
 
↑しかし反対側はしっかりとした格子窓でした。
 
この日は内部の無料公開が行われていました。
 
せっかくなので見学したいと思います。
 
↑内部は襖によって部屋が区切られる書院造り
 
↑白壁は柱が露出する真壁造り。窓には障子。
 
↑格子がなかった方の窓から外を眺めます。南から東方面の眺望が良いです。
 
この他にも、大手門をはじめとする小諸城の城門に関しての資料が沢山展示されていました。
一見の価値ありだ思います。
 
↑無料公開日は「こもろ観光局」のwebページでチェックできます。
 

 

懐古園へ 

 

 
大手門を堪能したら、城跡中心部の懐古園へ向かいたいと思います。
 
懐古園へは一旦線路を潜らねばなりません。
 
城跡と大手門の間を線路が分断していたのですね。
 
↑線路を潜る地下道。ここを抜けると…
 
懐古園の玄関口「三之門」が見えてきました。
 

 

  見どころ②三之門

 

 
小諸城の玄関口として1615年に建設された三之門。
 
1742年の大洪水で流失し、1765年に再建されたものです。
 
大手門に並び、貴重な現存建築物として国の重要文化財に指定されています。
 
 
サザエさんのオープニングにも何度か登場しているのだとか。
 
小諸城に訪れたら是非チェックしておきたいスポットですね。
 
↑「懐古園」の文字は徳川家16代当主「徳川家達」筆
 

 

  見どころ③穴城たる所以

 

 日本のお城では、城下町三の丸二の丸本丸と中心部に向かって標高が高くなっていく構造が多いかと思います。

 

しかし小諸城の場合は全く逆。

 

城下町から二の丸本丸に向けてどんどん低くなっていく構造で、その事から「穴城」の異名を持ちます。

 

二の丸から本丸方向へ続く通路。下って行きます。

 

最も低くい場所にあるのが本丸。

 

その先端は断崖絶壁になっていて、敵兵などはとても登って来られないようになっています。

 

↑小諸城背後を守る千曲川が作った断崖

 

城内でもっとも低い位置であろうと、この断崖で守られている場所に本丸を置く事が得策という事でしょうか。

 

自然地形を巧みに利用した見事な縄張りに脱帽です。

 

 

  見どころ④恐怖の地獄谷

 

自然地形といえば小諸城で忘れてはいけないのは地獄谷という名の大堀切。
 
地獄谷にかかる橋を渡ってみると、急峻な谷になっています。
 
↑左の大地が本丸。谷底は平だが、当時はもっと急峻だった。
 
比高さは約20メートルもあるそうです。
 
小諸城の北側に聳える浅間山の噴火によって形成された地形を、河川が浸食して出来た谷地だそうです。(田切地形)
 
また、谷には長い年月をかけて多量の土砂が流れ込んでいる為、
築城当時は今よりもっと深かったというので驚きです。
 

↑浅間山噴火によって噴出された自然石の石垣

 
↑浸食された地形がよくわかります。
 
橋の上から眺める地獄谷は、高所恐怖症の私には怖いくらいでした。
 
それにしても選地の段階から、こういった自然地形を取り込む事を想定していたのでしょうか。
 
非常に興味深いです。
 

 

  見どころ⑤天守台

 

最後に本丸に佇む天守台へ向かいます。
 
↑天守台登り口
 
小諸城にはかつて三重の天守が聳えていたと伝わりますが、1626年の落雷で焼失したとされています。
また現在残る天守台に、実際に天守が建っていたかはわかっていないそうです。
 
↑天守台石垣は野面積み
 
↑天守台に建つ石碑
 
↑天守台隅部から城内を見下ろす。
 
天守台付近では、わずかに金箔が付着した瓦が発掘されているそうです。
 
この場所に金箔瓦で彩られた三重の天守が聳えていたのでしょうか。
そしてその天守は誰の時代に誰の手によって建設されたのでしょうか。
 
今後も発掘調査や研究が進んでいき、そういった事が解明されていくことを楽しみにしています。

  城主を想う「仙石秀久」

 小諸城を現在見られる形に大改修したのは、豊臣家臣の仙石秀久。

漫画【センゴク」の主人公としても描かれていますね。

1590年に秀吉の小田原攻めの戦功で入封してきた秀久は、大手門の建設や二ノ丸の増築を行うとなど、約20年の歳月をかけて小諸城を近世城郭として完成させたと言われています。

また、秀久は領地の開拓及び城下町の整備に非常に熱心に取り組んだと伝わります。

高原の城下町「小諸」、そして現在も往時の面影を残す小諸城。

その礎を築いた仙石秀久に想いを馳せながら、小諸城を歩いてゆくのです。

 

  小諸城の歩み

 

1487年
大井伊賀守光忠が現在の大手門付近に前身とされる鍋蓋城を築く。
 
1554年頃
佐久地方を制圧した武田信玄に降伏し、武田氏の居城となる。
この頃に現在の縄張りになったとされる。
 
1582年
武田氏が織田信長に滅ぼされる。
小諸城には滝川一益の家臣道家正栄が入る。
本能寺の変に於いての織田信長没後、佐久地方の実権をめぐって、
徳川氏、北条氏で争いが起きる。(天正壬午の乱)
 
1583年
北条氏を退けた徳川方の旗下の松平康国が小諸城主となる。
 
1590年
豊臣政権下に於いての小田原攻めの功績で、佐久郡を与えられた仙石秀久が入城。
石垣天守などを構築し、城下町の整備も進める。
この仙石秀久の大改修により、現在見られる小諸城の姿が固まる。
 
1622年
仙石氏は上田へ転封となり、松平氏が城主となる。
その後は青山氏、酒井氏が城主を歴任していく。
 
1702年
牧野康重が移封され小諸城主となり、明治維新まで10代に渡って牧野氏が城主を務める。
 
1871年
廃藩置県により廃城となる。
 
1880年
城跡は小諸藩士へ払い下げられ、懐古神社が祀られた事から「懐古園」と名付けられる。
 
1993年
大手門三之門が国の重要文化財に指定される。
 
2006年
日本100名城に選定される。
 
現在
小諸城址懐古園として、地域の方々、お城好きの方々の憩いの場となっている。
 
↑本丸に建つ懐古神社の鳥居
 
 
 

 

  松代城の歩み

1560年頃

信濃侵攻を開始した武田信玄が山本勘助に命じて、松代城の前身である海津城を築城する。
 
1561年
第四次川中島の戦いで武田方の拠点として海津城は重要な役割を担う。
 
1582年
武田家滅亡。海津城には織田家家臣の森長可が入る。
その直後、本能寺の変が勃発。それにより森長可は海津城を放棄し美濃へ撤退する。
その後は信濃へ侵攻した上杉氏の領地となる。
 
1598年
上杉氏が会津へ転封。海津城は豊臣秀吉の蔵入地となり、田丸直昌が城主となる。
 
1616年
松平忠昌が入り、城名を「松城」へ改名する。
 
1622年
真田信之が13万石で入城。以後、松代藩真田氏の居城として明治維新を迎える。
 
1711年
城名が「松代城」へ改名される。
 
1872年
廃城。
 
1964年
県の史跡に指定される。
 
1981年
国の史跡に指定される。
 
2006年
日本100名城に選定される。
 
現在
復元整備が進み、地域の方やお城好きの方の憩いの場となっている。
 
 
 
長野県を代表する名城であること間違いなしの松代城。
 
どのようなお城なのか非常に楽しみです。
 
それでは松代城へ出陣します!
 

 

  登城記

JR長野駅からバス(アルピコ交通)で向かいます。
 
雄大な長野盆地を走ること約20分ほど
 
松代バス停(旧松代駅)に到着です。
廃線になった長野電鉄屋代線の松代駅として使われていた旧駅。
 
レトロ感が魅力の木造駅舎です。
 
駅舎内は観光案内所となっています。
こちらでパンフレットなどを頂いて松代城へ向かいます。
 
 
やってきました。
松代城の顔、復元された二ノ丸南門と太鼓門が出迎えてくれます。
 
写真や映像で見たのと同じ景色。興奮しますね!
それでは城内へ入っていきます。
 
まずはたどり着くのは堅牢な桝形虎口。
武田氏の築城によくある門と門が向かい合う形式です。
↑石垣は近年に修復されているよう
 
↑太鼓門櫓
 
これらの門は2004年に復元された物らしいです。
 
天守や櫓、門などの城郭建造物の復元は賛否あるようですが、多くの方に訪れて欲しいという地域の方々の想いが込められている気がして、私はこういった復元建造物が大好きです。
↑こちらも復元された北不明門。青空と相まってとても良い景観です。
 
本丸の北西部には展望台にもなっている戌亥隅櫓台があります。
早速登ってみましょう!
 
↑展望台も兼ねている戌亥隅櫓台
 
↑この櫓台の石垣は、松代城で最も古いとされている野面積みてす。
 
↑明らかに他の場所とは石垣の風貌がかわります。
 
↑戌亥隅櫓台からの眺望。戸隠山!
 
↑こちらは雪景色した北アルプス!後立山連峰ですかね。
 
↑北不明門方面、桝形虎口の形状がよくわかります。
 
↑本丸内部を見下ろす。
 
↑二の丸を横切る土塁ですね。こちらも近年復元されたよう。
 
この土塁に造られた埋門を見に行きたいと思います。これも松代城名物でしょう。
かつて二の丸の土塁には、このような埋門が三ヶ所造られていたそうです。
 
現在は一箇所のみ復元されているようですね。
 
松代城は近年まで往時の姿を殆ど留めていなかったとの事。
 
しかし、櫓門や土塁、埋門などが復元され、現在も堀後や馬出し後などの発掘調査が続けられています。
 
松代城のキャッチコピーは「蘇る城」
 
今後も進化し続けていくであろう、松代城の姿に目が離せません。
 

 

  松本城

 

林城の支城であった深志城が前身といわれている。
 
豊臣家の家臣、石川数正が入り現在の姿へと整備を進める。
 
数正の息子、石川康長の時に天守が建設される。
 
その後、石川家は改易。
松平氏が入り松本藩の藩庁として明治維新まで続いていく。
 

 

  登城記

 

長野県第二の都市、松本市の礎を築いた松本城。
 
全国で屈指の名城へいざ出陣です。

 

 

JR松本駅から徒歩で向かいます。
 
お城まで城下町を楽しみながら歩いていきま
す。
 
↑女鳥羽川
 
大手門跡の桝形
 
↑西総堀公園の土塁
 
 
 
 
15分程歩いて松本城入り口に到着です。
 
さすがは松本城。沢山の観光客で賑わっていますね。
 
お目当ては、やはり国宝天守でしょうか。
私もつられるように向かいたいと思います。
 
入場券販売所がある黒門桝形です。
 
天守のある本丸へ入るには入場券が必要。こちらで購入します。
 
外側の門と城内側の櫓門が向かい合う形式の桝形虎口ですね。
 
本丸側には堅牢な櫓門が。それにしても枡形内に券売所があるなんて面白ですね!
 
さて、この門をくぐり抜けると本丸に到着、天守が目の前に現れます。
 
とてつもない存在感。
 
漆黒の下見板張りと白漆喰のコントラスト、大天守を支える様に連結された小天守と附櫓。
最高です。
【天守群】
左から
・月見櫓(R4.10.30までは修理中)、
・辰巳附櫓(一重地下一階)
・天守(層塔型五重六階)
・渡櫓(二重二階)
・乾小天守(三重四階)
※全て国宝!
 
今からこの天守に入るのです。たまらないですね。
 
それでは行ってみましょう!
 

 

天守内部

真ん中の部屋(身舎)を廊下(入側)が囲む形式ですね。
 
お城ではお馴染みの狭間が並んでいます。
 
そして石落とし。更にその上にも鉄砲狭間が。
 
石落としからは真下に、狭間からは斜め下にと二方向に射撃出来る様になっています。
 
松本城は美しさだけではない、戦いを想定した要塞であった事が伺えます。
 
こちらは破風部屋ですね。
 
この中に身を潜めて、窓から鉄砲を放つ様です。
左右に二人配置して、交互に射撃出来る様にしているのでしょうか。
 
窓からは隣の乾小天守を間近に望む事が出来ます。
 
 
天守最上階までやって来ました。
 
松本城最上階には、かつて外に出て物見の出来る廻縁(ベランダのようなもの)があったとされています。
 
しかし、松本の地は寒冷地。
冬場は外に出るのも厳しい環境下です。
 
それゆえ廻縁は室内に取り込まれた形になっています。
 
↑柱の左側が廻縁
 
また、外側から見ると、最上階が下の階より出っ張ったような形をしています。
 
 
これは後から廻縁を囲む様に壁を作った為だと言われています。
 
この出っ張った最上階は、松本城天守の最大の特徴だと思います。
 
 
そして天守最上階からの眺めは、信濃の雄大さを感じさせてくれます。
↑本丸御殿跡
 
↑内堀と埋橋
 
↑北アルプス方面
 
↑内堀を挟んで市街地方面

  撮影スポットへ

松本城といえば、水面に映る壮大な天守の姿。
 
この水面はかつての内堀。ほぼ完全な形で残っているようです。
 
↑内堀を挟んでパシャリ
 
↑定番の角度でパシャリ
 
↑赤い橋「埋橋」を挟んでパシャリ
 
 
松本城の天守は見る角度によって表情が変わりますが、どこから見ても本当に美しいです。
 
よく雑誌などで見る定番の写真も良いですが、自分なりのお気に入りの顔を見つけたくなる。
 
松本城はそんなお城です。
 
↑個人的にお気に入りのスポットでパシャリ
 

 

  城主を想う「石川数正」

松本城の築城者、石川数正は裏切りの武将と呼ばれる事があります。

 
元は徳川家康の家臣。しかも家臣団の中で一、二を争う重要な役割を担っていました。
 
しかし、小牧・長久手合戦の後、石川数正は豊臣秀吉の元へ出奔してしまいます。
 
この頃というのは、秀吉は何とか家康を臣従させたいと奔走していた時。
 
家康は家康で、秀吉には絶対に従わないという態度を示していた時でした。
 
そんな最中の出来事に、家康を始め家臣団の人達は晴天の霹靂のような思いであったと思われます。
 
あの石川数正がこんな時に、しかもよりにもよって豊臣方へ寝返るなんて…
 
 
これによって、徳川家の軍事的な機密事項などが豊臣家に筒抜けになってしまいます。
 
もはや秀吉と戦うには分が悪すぎる状況。
 
家康が秀吉へ臣従する事になるきっかけの一つになったのではないでしょうか。
 
 
この数正の寝返りには、家康と仲違えした、秀吉の引き抜きにあったなど、様々な説があります。
 
その中で面白いと感じるのは、「徳川のスパイとして豊臣家に入った」または「味方になるなら徳川と戦はしないと豊臣方と密約があった」など、要は徳川家の為にあえて豊臣方へ寝返ったという説です。
 
 
前述しましたが、この時期は秀吉と家康の間で非常に緊張感が高まっていた頃です。
 
臣従しない態度をとっていた家康ですが、勢いに乗る秀吉との差は歴然な物になっていました。
 
実際にこのままの膠着状態か続いていたら、いずれ徳川家は潰されていた可能性があります。
 
石川数正の寝返りにより、結果的に徳川家は存続した。
裏切りではなく、徳川家の事を思っての行動だった。
 
江戸時代に入り石川家は改易されていますので、この説の信憑性は高くないかも知れません。
 
しかし歴史はロマン、答えは解らずとも自由に空想を膨らませるのが最高に楽しいのです。
 

そして石川数正が築き、息子の康長が完成させた名城「松本城」は現在も往時の姿を留めています。

 
数正の想いが込められているであろうこのお城にこそ、その答えが眠っているのかもしれません。

 

  これまでの熊本城

 

難攻不落の城といえば、必ず名前が上がる熊本城。

 
黒田官兵衛藤堂高虎と並んで築城三名手と評される加藤清正によって築かれました。
 
↑熊本城入り口に建つ「加藤清正」公銅像
 
高く聳える石垣、合計六か所に配された五階櫓、桝形を五重に連ねた連続桝形など、
清正は朝鮮出兵時の蔚山倭城籠城戦の経験を惜しみなく活かし、難攻不落の熊本城を完成させたといいます。
 
↑二様の石垣。手前の勾配が急な方が細川時代、奥の勾配が緩やかな方が加藤時代のもの。
 
↑城内へ向けて枡形を五重に連ねた「連続枡形」中央の櫓台は「竹の丸五階櫓台」
 
難攻不落と言われるお城は実は沢山ありますが、
熊本城は実際に戦いの舞台となり、難攻不落ぶりを証明した数少ないお城です。
 
築城から約270年が経った明治10年。
西郷隆盛率いる薩摩軍新政府軍がぶつかり合う「西南戦争」が勃発。
 
↑西南戦争直前に火災で焼失した天守。現在の天守は1960年に復元されたもの。
 
熊本城に陣取るのは新政府軍
それを攻め落とさんとするのは薩摩軍
 
薩摩軍は幾度となく熊本城へ攻撃を仕掛けますが、結果として攻め落とすには至りませんでした。
 
↑天守最上階から薩摩軍が布陣した花岡山を見る。ここから城内に向けて大砲を放ったらしい。
 
近代化する日本の中心を担った薩摩軍。
その攻撃力が、270年前に築かれた熊本城に通用しなかったのです。
 
薩摩軍を率いる西郷隆盛は、「まるで加藤清正公と戦っているようだ」「新政府軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ
そのような趣旨の発言を残したそうです。
 
加藤清正の最高傑作、熊本城。
その難攻不落ぶりは、270年後に証明される事になりますが、
誰がその様な未来を予想していたでしょうか。
 
 
 

 

  これからの熊本城

 

2016年4月
熊本地方を二度にわたり襲った震度7の地震。
 
ここ熊本城も甚大な被害を受けました。
 
当時のニュース映像で飛び込んできたのは、倒壊する建造物、崩れ落ちる石垣、
今まさに破壊され続けているという熊本城の姿でした。
 
「もう元通りにならないのでは?」
 
瞬間的にそう感じてしまい、とても落ち込んだのを覚えています。
 
↑崩れる石垣、栗石がむき出しになっている
 
↑数寄屋丸二階御広間。石垣が一部崩落、建物も歪んでいる。
 
↑北大手門付近の石垣。崩落防止の為か大型土のうで保護されている。
 
 
しかし、被災後まもなく熊本復興の希望の光として熊本城の復旧事業がスタートしました。
 
再び元ある姿へと、熊本城は動き出したのです。
 
 
2020年 特別見学通路完成
 
2021年 天守閣、長塀の復旧完了
 
2027年 飯田丸五階櫓、平櫓などの復旧
 
2032年 宇土櫓、続櫓などの復旧
 
2037年 戌亥櫓、不明門などの復旧
 
2037年 完全復旧 全エリアへの立ち入り可能に
※熊本市 熊本城復旧基本計画より
※R.4.11時点での情報
 
 
↑安全に見学できる特別見学通路。2020年より運用開始
 
 
↑熊本復興のシンボル天守閣。2021年に復旧完了
 
 
↑重要文化財「長塀」 2021年に復旧完了
 
↑重要文化財「宇土櫓」 震災で続き櫓が倒壊。
2022年11月より解体へ向けた基礎工事が開始された模様。
 
 
完全復旧まで道のりは長いですが、その作業は着実に進んでいるようです。
 
今後も復旧までに何度か熊本城を訪れるかと思います。
その度に復旧具合を確認するというのも楽しみ方の1つかと思います。
 
そして2037年、いや予定通りに進まなかったとしても、
全国屈指の難攻不落の城、加藤清正の熊本城は必ず復活する。
 
そう信じながら、来たるその時を心待ちにしています。
↑熊本の街と熊本城。また来る日まで

※R.4.11.22追記
熊本城復旧予定が当初より15年伸びて、2052年度となるとのニュースがありました。

特に石垣の修復に多大な時間を要するそう。

少し残念な気持ちもありますが、熊本城に行った事がある方なら納得のはず!

なにせあの膨大な量の石垣ですから…

完成を楽しみに気長に待ちたいと思います。