シオタ医師と二人の看護師が部屋を出て行き、一人になると吾輩は筋トレを始めた。時間はいくらでもあるし、入院中にムキムキに肉体改造するのも悪くない。

まずは床で腕立て伏せをやろうとしたのだが、三回くらいでやめてノロノロと畳の上に戻った。床に顔を近づけた瞬間、明らかに吾輩のものではない長い髪の毛がたくさん落ちているのが見えてしまったのだ。

床についていた手のひらを見ると小さなゴミに混じって縮れた毛まで付着している。吾輩は潔癖とは真逆に位置する人間だが、好き好んで他人の毛にまみれたくはない。

手をパンパンと払って、他の筋トレメニューを考える。畳の上は狭いが布団を畳んで隅に寄せればスクワットくらいならできそうである。

そう言えば、先ほど絶叫していた女性はいつの間にか静かになっている。あれほど荒れ狂っていたのにどうやって落ち着かせたのだろう。まさか映画みたいに注射でも打って黙らせたのだろうか。

しかし、これで私のいるフロアには少なくとも二人の隣人がいることがわかった。右隣りの部屋に男性、左の二つ隣りくらいに女性がいるらしい。目を閉じて耳をすましてみるが、今は何も聞こえてこない。

「よっ!」

突然、後ろから声をかけられて心臓が跳ね上がった。振り返ると鉄格子の向こうの廊下にモップを持った女性の看護師が立っている。年齢は私より少し下くらいだろうか。三十代半ばといったところだ。

「ごめんね、驚かせて。ええとAさんだっけ?何やって入ってきたの?アルコール?薬物?」

「アルコールです。薬物の人もけっこういるんですか?」

「色んな人がいるよー。でもやっぱりアルコールが多いかな。けっこう飲んじゃったの?若いからはっちゃけちゃったんだねー。こういうところは初めて?」

なんだかノリがそういうお店のおねえさんみたいである。吾輩はウロウロ徘徊飲み型なので、店飲みはしたことがなくただのイメージなのだが。とにかく、退屈していたので会話相手が現れたのは嬉しかった。

「入院は初めてです。まさかこんな…牢屋みたいなところだとは思わなかったです」

「そうだねー。保護室の間はちょっとキツイかも知れないけど、しばらくしたら出られるから。まあ、Aさんが飲み過ぎてしまったのが悪いということでガマンして下さーい」

「ああ、ここは保護室だったのですか。道理で確かに警察署のと似てるかも…」

そんな話をしていると、隣りから男性の咳払いが聞こえた。

「おねえさんさぁ、ちょっと寒いんれすけど」

「はいはい、冷房弱くしてきますね。待ってて下さーい」

パタパタと廊下を走っていく音、それからわりとすぐにガッチャン音が聞こえたところからすると、廊下のそれ程遠くない場所に出入り口があるらしい。まあ、それが分かったところで何の意味も無いのだが、暇だとなんでも分析したくなるものらしい。

そして、隣の部屋の男性は声の感じからして、年齢は五十代後半くらいと分析した。勝手に俳優の温水さんで脳内イメージを作り上げ、色々と想像してみる。滑舌があまり良くないようだが、歯がだいぶ弱っているのだろうか。

「すみまへーん!すみまへーん!」

また何かご用があるらしく大声で呼んでいる。しかし、廊下はシーンと静まり返り、誰かが来る様子はない。

確か、シオタ医師は監視カメラに手を振れば誰か来ると言っていたが、声は聞こえないということだろうか。何回か「すみまへん」を繰り返していたが、そのうち諦めたのか舌打ちが聞こえ、今度は何やら衣擦れの音が聞こえてきた。

食事中の方はこの辺りは飛ばして次のページに進んでいただいた方が良いかも知れない。



「うーん、うーむ、うーん…」

お隣さんの力む踏ん張り声と、何かチョロチョロ〜とかプスーとか色んな音が聞こえてくる。かなり些細な音までハッキリ聞こえてくるということは、お隣りのトイレの便器はこちらの壁際にあるのだろう。

「すみまへーん!流してくらさーい!」

今度は聞こえたのか間も無く廊下の奥からガチャンと音がして、年配のややベテラン感が漂う女性看護師が現れた。

私の部屋の前を軽く会釈して通り過ぎ、隣りの部屋の中を覗き込むと、廊下の床に設置されたレバーを足で踏んだ。隣りの部屋から水の流れる音がした。

どうやら自分でトイレは流せず、その都度お願いしないといけないらしい。次に彼女はレバーの真上の壁にかけてあったクリップボードを手に取り、何やら書き込みながら言った。

「まだ便出ないの?ずっと出てないね。いつから出てないの?」

「もう一ヶ月は出てないよー」

「そんなワケないでしょ。先生に下剤お願いしとく?」

「たのんますー」

なるほど、看護師が水を流す前に目視で確認して、便が大きい方だったか小さい方だったかなど内容を記録しているようだ。これは個人的にちょっぴり恥ずかしい気がする。

私の部屋の前にもレバーがあり、その真上にはやはりクリップボードが引っ掛けてあった。まだ未記入だが日付と時間を記入する欄があるのが見える。

やや遠くて見辛いが目を凝らしてお隣りの記録を覗き見ると、日付からして少なくとも一週間はここにいるらしい。四日間以上滞在するケースもあるのだろうか。

お隣りの男性は看護師との会話の内容からすると長いこと便秘が続いているようだ。うんこ出んぞう… 私は彼を脳内で「デンゾウさん」と呼ぶことにした。

そんなくだらないことを考えていると、どこからか歌声が聞こえてきた。女性の声だ。先程の絶叫女性らしい。どこかで聞いたことはあるのだが曲名の思い出せないJ―POPを歌っている。

「うふふふふふ…」

歌が止み、嬉しそうな笑い声に変わった。そして、しばらくブツブツと独り言を言いながら笑っていたが、突然、バンッと壁か畳を叩くような音がして、笑い声は怒鳴り声に変わった。

「おい!ジロジロ見てないでお茶持ってこいよォー!!」

先程の女性看護師はもう戻ったようだし、廊下には人の気配は無い。一体誰がジロジロ見ているというのだろう。監視カメラに向かって言っているのだと思いたい。

コロコロとかなり感情が不安定なようであるが、彼女はアルコールだろうか、はたまた薬物なのだろうか。彼女のことは「ヤンデレラ(病んでれら)」と呼ぶことにした。

デンゾウさん、ヤンデレラ…これからの長い長い四日間を共に過ごすことになる二人の隣人である。