辺見庸さんの新刊『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』が
出版されたそうです。
読みたい…けど、他に読もうと思って買った本が溜まってる^^;
(僕は殊に本好きではないというのが多忙以上の理由かと思いますが^^)
辺見さんは僕が昔から崇敬するジャーナリスト?です。
以前、それを先輩に言ったら「青いな…」と言われました。
そして僕は心の中で「(あんたは知らないからだ…)」と思ってましたw
″知らない”と思ったのは、
こういったら平伏しそうなほどに辺見さんに対し恐縮なのですが、
僕はその先輩にはない、辺見さんとの“共通点”を持っているからです。
それは″死にかけた”こと。
否、僕は本当に3度、心肺停止を経験し、″死んで”います。
辺見さんもガン闘病で死との対峙を経験していて…
夏目漱石の「こころ」なんかもそうですが、
人は肉体的にも精神的にも“死”という最終局面に接した時、
感性が最大限に機能するんです。
極限まで研ぎ澄まされるような感覚です。
(ちなみに僕は無宗教…強いて言って神道かな?って感じですが^^)
…じゃあ、なぜ同じ経験をしているのに
僕と辺見さんに違いがあるのか?
漱石とも・・・
それはその″脳内を文章化する能力”なんですね。
これは、“人に伝える”という職能として致命的欠落ですw
でも僕は心の中で「まだ若いから仕方ない…」と自分に言い訳してますがw
ちなみに、僕は4歳のころに交通事故で一週間ほど昏睡状態に陥り、
19歳の時にはこれまた10トンのミキサー車に轢かれるという交通事故で
普通の人間らしく動けるようになるまで全治4年(といっても後遺症あり)
で一ヶ月以上に渡り生死の境をさ迷い、
日本で初めての″交通事故による人工肛門”となり(もう治ってます^^)
昨年にもアフガニスタンで滞在していたホテルの風呂場で一酸化炭素中毒になって、
もがき苦しみながら死んで(落ちて)10分ほどの心肺停止→心臓マッサで復活
→身体機能完全停止でアフガニスタンで丸一日一人氷河期…
を経験しています。
…僕には命日が三回ありますね^^;
だから、こんな風に書くとただの親不孝な感もありますが、
どれにしろ僕は”誰か”(医者、家族、友人、知人、ホテルマン…)に助けてもらったのであり、
だからこそ、僕は(他)人の尊さ、その繋がりのありがたさ、
その人生における大きさ、大切さ、それらが人一倍
身にしみているのだと感じています。
そしてだから、日本とは縁遠い紛争地などの人々にも
僕は単に“捨て置けない”という感情を抱き、
取材へ行きたい、伝えたいと思うんです。
それは僕自身が“誰かに助けてもらった”あるいは
“生かしてもらっている”という感情が強いからだと思います。
そして“生きる”ということに対する概念的な意味合いとしては、
自分の命を最大限フル活用することを厭わないというより、
そういうことをすることにしか
本当の“生”を感じなくなっているのだと思います。
…と、まあ疲労困憊の状態で飲みながら書いていたせいか
脱線していきましたが、
こういう考え方を“青い”と言われるなら、
僕は一生、“青い”ままでいたいです。