■政治のアウトサイダー

 志貴皇子は、天智天皇の第七皇子として668年に誕生したとされています。天智天皇の皇子は、第一皇子が大友皇子、第二が川島皇子ですが、三から六番目までは不明で、壬申の乱後も生存していて、川島皇子とともに吉野の盟約に参加したということでしょう。時に推定年齢は11歳で最年少でした。幼年だったこともあり、天武朝では他の皇子たちに授けられた官位官職からは漏れています。持統天皇即位の前年(689)、「撰善言司」(よきことえらぶつかさ)という官職に就任しますが、これが記録に残る唯一の官職で、その後は他の皇子たちが亡くなるにつれて位階が上がり、最後まで生き残って716年に死去します。

 

 次に政治的背景をみて行きましょう。吉野の盟約の天武朝から、文武朝の忍壁皇子が亡くなった705年までは前述(その3、その4)の通りです。文武天皇は70725歳の若さで崩御しますが、その際志貴皇子は皇族男子の筆頭として「殯宮」に供奏しています。殯(もがり)とは古代に行われていた葬送儀礼で、死者を埋葬するまでの長い期間、遺体を仮安置して、死者を哀悼、霊魂を慰め、復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認することです。

 

 文武天皇の遺皇子には、不比等の娘である藤原宮子所生の首皇子と、かつては蘇我氏と並ぶ豪族物部氏を祖とする石上麻呂(いそのかみのまろ)の娘所生の皇子がいました。皇族出身の妃(皇后)はおらず、いずれも臣下の娘を母としていたことから、後継問題には微妙なものがありました。

かつて物部氏は蘇我氏との争い(旧来の神道を主張する物部氏と、朝鮮半島経由で伝来した仏教を主張する蘇我氏)で敗れ、勝利した蘇我氏は6世紀から7世紀前半にかけてヤマト政権で最も力を持った豪族となっていました。蝦夷、入鹿親子は乙巳の変(645年)で倒され、壬申の乱では大友皇子側について処罰され大分勢力が衰退したものの、代々娘を天皇家に嫁がせて権威ある一族とされてきました。ちなみに6人の皇子たちでは、草壁皇子と大津皇子の母親は蘇我氏の娘で、6人全員の妃の母親も蘇我氏です。

 

 では何故、母親の身分に重きが置かれていたのでしょう。それは元来、母親の血縁で結びつく母系集団に起因します。子どもの父親が定かでなくとも、誰が子どもを産んだかは歴然としていますから…。母系社会は一族の財産を、他に奪われることなく確実に守りぬくため、相続は母から娘の血筋を通して行われました。ただし女の地位が高かったわけではなく、あくまで集団を支配するのは、母親の男兄弟か娘の父親でした。これに対して父系社会は、血筋が父方にのみたどられ、家系や財産は父から息子へと継承される社会制度です。男は権力があるだけではなく、権威も高まります。中国の父系制度は、殷から周の時代にかけて形成され、秦の始皇帝の即位と天下統一などは、父から息子への継承、遡れば代々の王からの使命とされています。母系社会でのありがちな、神(女)からの神託ではないのです。

 

 天武天皇は唐の律令制に学び、父系制度の導入を試みたのですが、母系制が色濃く残っていたため、後継者の母親の身分が重要視されていたのです。文武天皇の後継は、臣下においては、物部氏の生き残りで蘇我氏と合体していた石川氏(蘇我倉山田石川麻呂)という旧勢力と、新興勢力(藤原氏)の争いでもありました。結果は、藤原不比等の娘(藤原宮子)所生の首皇子が7歳と幼少であったため、蘇我系の皇親勢力が間をとるかたちで、草壁皇子の妃(阿陪皇女)707年に即位して元明天皇となりました。

 

 即位後の元明天皇は、大宝律令を整備・運用して行くにあたり、実務に長けていた藤原不比等を重用しました。臣下の位では、石上麻呂が左大臣、藤原不比等が右大臣で、石上麻呂の方が上位でしたが、実権は藤原不比等が握っていたようです。

 

 石上麻呂は、壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)につき、敗れた皇子が自害するまでつき従い、大友皇子の首級を大海人皇子(天武天皇)に届けた功により、のちに赦されて遣新羅大使となっています。遣新羅大使とは、ヤマト王権が新羅に派遣した使節で、特に668年以降の統一新羅に対して派遣され、779年を最後に正規の使節は停止されました。背景には、唐の進出により百済が滅亡し、白村江の戦い(663年)により唐との関係が緊張してから頻繁に任命され、朝鮮半島との政治情勢の変化により中止された経緯があります。

 

 石上麻呂は遣新羅大使から徐々に出世し、前述のように元明天皇即位時には、臣下の最高位である左大臣になっていました。しかし710年都が平城京に遷都※された際、天皇のいない藤原京の留守役として残され、713年石上麻呂の娘所生の皇子は、母親とともに皇籍を剥奪されて臣下(高円広世)となり、自身は717年に死去しています。(「かぐや姫」の求婚者の一人で、燕の子安貝をとろうとして失敗し、椅子から落ちて死んでしまう「石上まろたり」のモデルとされる)。これを政治的にみれば、実権の強かった藤原不比等による、石川麻呂の皇親勢力からの切り離し策戦でしょう。

 

※中国では複数の都をおく二都制がありました。(例えば秦の始皇帝は、平時の都は咸陽でしたが、が反乱を起こした時には擁城で即位にあたる加冠の儀を行っています)。ヤマト王権は中国に倣って二都制を採用しており、孝徳天皇が難波宮に移ったとき、天智天皇が近江大津宮に移ったときにも、飛鳥の京(倭京)は保存されていましたが、天皇の居場所はその時々の権力と密接に結びついていました。710年の遷都は、藤原京(現在の奈良県橿原市と明日香村)から平城京(現在の奈良市、大和郡山市)と奈良盆地内での元明天皇の移動です。

 

石川麻呂が失脚した翌714年、元明天皇は文武天皇の唯一の皇子となった首皇子を立太子としますが、首皇子が若年(15歳)であるとして※、715年に長女の永高内親王(大宝律令により王族の名称は、皇子・皇女から親王・内親王となった)を一品の位に昇叙し、次女の吉備内親王を長屋王(高市皇子の長男)の妃とし、長屋王を一世親王待遇としました。二人の父親はともに草壁皇子であり、蘇我系皇親勢力の巻き返しです。そして同年103日に退位、同日永高内親王が即位して元正天皇となります。ただし元明天皇は太上天皇となってその後も政治の主導権を維持し続けます。

※文武天皇は15歳で即位していますが…。

 

この物語の主人公、志貴皇子に話を戻しましょう。志貴皇子は、母方筋でいえば元明天皇は女きょうだいの妹、元正天皇は姪にあたるためか(※1)、元正天皇即位の715年に二品に昇格し、翌71691日にこの世を去っています。葬儀の模様は『万葉集』に、御用歌人笠金村作の挽歌(巻2・230231)があります。儀礼的で大仰な長歌(巻2・230)比べ、率直な心情を詠んだ短歌(※2)は以下の通りです。

 

高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに(巻2・231)

 

(1)参考文献 明石紀一著『日本古代の親族構造』吉川弘文館 1990

()私が奈良に旅して、宮内庁管理の志貴皇子陵墓を訪れた際、萩の花がさかんに咲いていたことを思い出す。何か私と志貴皇子との運命的なつながりが感じられた。

 

志貴皇子(親王)が生きた時代の政治的背景は以上の通りです。政治的には何も目覚ましい業績がない(今風にいえば出世しなかった)、いわば「政治のアウトサイダー」であったといえるでしょう。それは立場上いたしかたなかったのか、自ら望んでその立場を択んだのかは、これから考察して行きます。ただし生前の唯一の官職「撰善言司」は、文化的業績として重要な意味をもっていると思われるので、次に文化人としての志貴皇子をみて行きましょう。

 

つづく