■消された官職―『日本書紀』のトリック(弐)

 前稿で提示した「氏族制度」を解明するにあたって、中国の始皇帝の場合をみてみましょう。始皇帝は秦王に即位して天下統一を果たした後、「王」の称号から「皇帝」に改め、歴史上はじめてとなることから「始皇帝」と呼ばれていますが、本名の「姓」はえい、「氏」は趙(ちょう)、「諱」は政(せい)または正(せい)です。

 

「姓」は血縁集団の名称を差し、家の概念及び墓への埋葬にも結びついています。「氏」は血縁関係のある家族群で構成された集団で、氏族は共通の祖先を認めあうことによって連帯感もつ集団。すなわち「姓」も「氏」も血縁集団ですが、子どもが父と母のどちらに属するかによって「父系制」と「母系制」に分かれることにも繋がります。「諱(いみな)」は人物の名の一つで、公的な場合を除いて公開されることは少なく、日本においても、古代以降導入されましたが、上層階層を除いて認識が希薄でした。これらは、いずれも東アジアの漢字圏で用いられた概念です。

 

始皇帝の「姓」エイは、父親のエイ異人から受け継いだもの、母親の趙姫は趙の国の「氏」、「姫」は高貴な身分の女に用いられる美称で「諱」ではありません。始皇帝がエイ政を名乗ったのは、父親のエイ異人の姓を継承したことを意味し、(「始皇帝 天下統一」で)曾祖父の恵文王から剣を受け取る幻想場面は、代々の秦王の象徴でもある剣を、即位式で腰に差したことにも繋がります。つまり秦では、男子は父系に属して権力を持つ父権制(家の概念にもつながる)が確立していたのです。

 

それでは次に、中国の氏族制度を参考にしながら、「蘇我氏」のルーツをみてゆきましょう。なお資料には、『日本書紀』以外に『古事記』『古語拾遺』『和名類聚集』『新撰姓氏録』『公卿補任』『播磨国風土記』『公卿補任』『台記』『国造本記』等を用います。

 

蘇我稲目(そがのいなめ)の曽祖父蘇我満智(そがのまち)または蘇我満智宿禰は、古墳時代の豪族で、蘇我石川宿禰の子、武内宿禰の孫にあたります。武内宿禰の第三子が石川麻呂であることから、元は武内・石川と同族であり、名(諱)の「マチ」からは、町の語源が田の区画で、農耕祭儀に関わる神聖な田を表すことから、稲作祭儀(※1)に関わっていたと考えられます。

「宿禰(すくね)」は古墳時代の称号の一つで、20をこえる国の首長(氏族名)にみられますが、ヤマト王権では官職名として用いられ、蘇我の他、武内、野見、允恭天皇などの記述があります。蘇我満智の場合は、ヤマト王権のクラ(穀倉)を管理していたと考えられます。

 

※1、稲作は渦巻き状もしくは同心円紋状に稲が植えられており、渦巻き文様は祭儀を表す。

 

蘇我満智の子である蘇我韓子(そがのからこ)は、新羅が百済地域に進出し対馬海峡を押さえて倭国(※2と高句麗との交易を妨害しはじめたことに対し、新羅征伐のため朝鮮半島に渡った際、騎馬戦で活躍しました。馬は大陸から朝鮮半島を経てもたらされ、韓子が兵馬で戦っていることから、蘇我氏は早くから馬を取り入れ、奈良県橿原市曽我にある南曽我遺跡からは、5世紀後半から末頃にかけての馬墓が発見されています。「蘇我」の氏族名は、地名の「曽我」にちなみ、諱の「韓子」の「子」は敬称で、「カラ」の語源は国の外からきたものとすると、朝鮮半島からの帰化人系統であったと考えられます。

 

※2、古代の日本列島には小国が多数あり、中国諸王朝や朝鮮半島などの周辺諸国からは、「倭」(わ)と呼ばれていた。小国の一つであったヤマト王権の初期は、豪族連合体の政治及び軍事組織であったが、周辺諸国を併合して拡大し、7世紀後半には国号を「日本」にあらためた。

 

 蘇我韓子の子、蘇我高麗(そがのこま)は別名を蘇我馬背といいます。ここで大胆な仮説をしてみます。諱の「馬」は蘇我氏が早くから馬を取り入れたこと、「背」の語源は、古代の「妹背」が母を同じくする「きょうだい」関係の男子を示す(※3)とすると、蘇我氏は母系制の血族集団であり、邪馬台国では卑弥呼の弟が実権をもっていたように、一族の長だったと考えられます。また、飛鳥時代の豪族河辺磯泊、河辺百依の祖とされますが、これらの「姓」がいずれも「臣」であったことにも着目します。

※3、参考文献 明石紀一著『日本古代の親族構造』吉川弘文館 1990

 

以上蘇我氏の祖を辿れば、朝鮮半島からの帰化人が、現在の奈良県橿原市辺りに定住した母系制一族で、稲作祭儀と馬に特徴があったといえるでしょう。次はいよいよ『日本書紀』に本格的に登場する、蘇我韓子の子である蘇我稲目についてみてゆきましょう。

 

つづく