■消された官職―『日本書紀』のトリック(壱)
志貴皇子が持統天皇即位の前年689年に就任した「撰善言司」は、『善言』という書物を編集するための官職で、『日本書紀』巻第三十には文才ある官人7人で構成されていたとありますが、この官職名が『日本書紀』に登場するのはこれきりで、以後の記録にはありません。「司」の文字から、志貴皇子が筆頭役だったと思われますが、そこで何が編集されていたか、これから内容を探って行くにあたり、私は以下の3点に注目してみます。
第1点、天武天皇は吉野の盟約後に、川島皇子と忍壁皇子に「帝紀編纂」の官職を命じたが、筆頭役だった川島皇子が持統天皇即位年(690)に死亡していること。同時に命を受けた忍壁皇子が、696年の高市皇子亡き後「律令編纂」の筆頭役になっていること。(その4参照)。
第2点、620年(推古28)、蘇我馬子が聖徳太子と共に「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を記す(『日本書紀』より)
第3点、645年7月10日、乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺された翌7月11日、蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』その他の珍宝を焼いて自殺した。船恵尺がこの内『国記』を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上した。(『日本書紀』より)
第1点目は後にして、第2、第3について、先学の研究成果が凝縮されたウキペディアを中心としたネット情報と、テレビで放送された韓国および中国歴史時代劇ドラマ(※1)を参考に、大胆な推測を行ってみます。
※1、主に韓国ドラマでは、百済第27代威徳王の王子を主人公とした「ソドンヨ」(脚本:キム・ヨンヒョン、監督:イ・ビョンフン)、高句麗建国王を主人公とした「朱蒙(チュモン)」(脚本:チェ・ワンギュ/チョン・ヒョンス)、中国ドラマでは、始皇帝の生涯を描いた「始皇帝 天下統一」(原題:大秦賦 監督:延芸他2020年 総製作費165億円)
まず、第2点目からです。蘇我氏は馬子の時代に全盛期を迎えたとされますが、620年の馬子から、私は始皇帝(エイ政)が秦王として即位にあたる「加冠の儀」(※2)を行う前に、相邦(※3)であった呂不韋が、咸陽の城門前で臣下一同に、『呂氏春秋』を披露した場面を連想します。「一字千金」の語源となりましたが、呂不韋は竹簡の巻物を大量に積み上げ、「賢人の著作を集めて、6年かけて編纂した私の著作だ。6つの論議、12の時令と8覧の各家の思想を網羅した内容は、天下万物古今の全てにわたる天下一の書物だ。治世の内容も多く盛り込んだ」。そして居並ぶ家臣たちに「内容に不明加筆、削除すべき文言があれば一字千金を与えよう。相邦府の書斎に置いておくから、諸君はいつでも来られるがよい」と誇ります。臣下の一人が「皇子(エイ政)には」と問うと、「後で、私の手書きのものを差し上げるつもりだ」といいます。(※4)
この時の臣下の中には、のちに政治顧問となる李斯もいましたが、この編纂には加わっていませんでした。(※5)
※2、咸陽の都ではなく、擁城でおこなわれた即位式にあたると思われる「加冠の儀」では、まず「冠」を頭にのせてもらい、次に代々の王から受け継がれてきた「刀剣」を腰に差し、最後に王の勅令文書の印章「玉璽」を、太后である母(趙姫)から受け取った。太后は王の死後、次の王が即位するまで実権を保持していた。この儀式は、いわゆる三種の神器の原型ではないか…。
※3、官職の最高職は丞相であるが、相邦はさらに上の王と同等の力を持つ地位。
※4、この時点で呂不韋は「私の著作だ」と言っただけで、書名を『呂氏春秋』としたのは、前漢時代の司馬遷『史記』である。「呂氏」とは呂不韋、「春秋」は中国の春秋時代に孔子が編集したとされる歴史書にちなんだもの。著作の中身「6つの論議」は「秦、趙、韓、楚、燕、斉」の6国、「12の時令」は「季節に従い天子が行う政治上の儀礼」で1年12カ月の元、「8覧の各家の思想」は、漢字の「八」が末広がりで無限の可能性を示し、各家の思想とは各国の賢人の思想を指すと思われる。
先の王朝周が滅びた後、孔子は自身の理想とする国づくりを実現するため、仕える王を探して諸国を旅していた。政治顧問としての就職先を探していたのであり、敬称の「子」の由来でもある。「賢人」は後に「思想家」とされるが、呂不韋の相邦府は各国の賢人を集結させた、当時最高の知的学府でもあった。また呂不韋が手書きで秦王に献上したのは、代々の秦王の系譜と治世だと思われる。
※5、李斯は楚の国の出身で、趙の都で荀子に学び、韓非子(韓の国の皇子)は同門であったが、秦王となったエイ政(のちの始皇帝)に近づこうとしていた韓非子を殺害した。また後年、荀子の性悪説に基づく「法治主義」とは異なる「徳治主義」思想の儒者を弾圧、焚書抗儒も実行させた。
さて本文にもどりましょう。趙の商人呂不韋は、秦の王位継承順位が低く、趙の人質となっていた第7皇子のエイ異人(始皇帝の父)をかついで、戦火の趙を脱出、子どものいない秦の第4代孝文王の妃である華陽夫人の養子にします。エイ異人が秦の第5代荘譲王として即位すると、官職の最高位「丞相」に就任、いくつかの戦いで軍功をあげ、豊かな洛陽の領土を得ます。(俗に呂不韋の大博打といわれているが、商人であるため、商い取引で秦の国情に通じており、戦時の兵糧の調達が出来る)。荘譲王死後は、息子エイ政(のちの始皇帝)が即位前の立太子時代、相邦で「仲父」(周の時代では君主の覇業を支えた功臣であったが、呂不韋の場合は実父の可能性もある)と呼ばれて実権を握り、自身が編集した著作『呂氏春秋』を披露します。
最高権力者と承認されるには、「政治的地位」、「財力」、「文化」の三つが必要で、『呂氏春秋』はまさに「文化」にあたるのです。
蘇我氏は馬子の時代が全盛期といわれますが、第2点の馬子が記したとされる「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」は、推古天皇(大王)公認の著作を意味し、呂不韋の『呂氏春秋』に相当するため、「文化」的優位も得た馬子はこの時点で最高権力者になったと考えられます。
『日本書紀』では、蘇我氏の系譜を稲目→馬子→蝦夷と入鹿で記されていますが、そもそも「蘇我氏」という氏族名は、ヤマト政権が5世紀から6世紀にかけてつくりあげた「氏姓制度(うじ・かばねのせい)」の中で生じたもので起源がはっきりしません。中臣鎌足は669年の臨終に際して、天智天皇から「藤原姓」を賜り「藤原氏」となりました。
そこで次に、「氏姓制度」の分析をしながら、「蘇我氏」のルーツを探ってみることにします。
つづく