シオンママの日常生活

シオンママの日常生活

16歳で登校拒否。その後、精神科への入退院を繰り返しながらも大学を卒業。40歳を過ぎた頃から、やっと少しずつ落ち着いてきた日常生活を綴ります。

8月30日は大切な友達の誕生日だった。

当日届くようにプレゼントとメッセージカードを郵送し、ラインでおめでとうメッセージを送った。

そして、コロナ禍以来、逢えていない彼女と、久しぶりに逢う約束をした。

彼女には小学校低学年の子どもがいるので、身軽な私が彼女を訪ねることにした。

彼女とは高校の同級生だ。
それも、私が体調を崩した高校2年生で初めて出会った。
私が教室に通えたのは2年生になって1か月も無かったと思う。
その間、共通の友人を架け橋に一緒にお弁当を食べる程度の付き合いだったように思う。

その後、私は教室に入れなくなり、休みがちになった。
そして、母親の強い希望で強引に自宅から車で保健室まで運ばれるようになり、私は保健室登校をすることになった。

そんな保健室によく顔を出してくれたのが彼女だった。
よく手紙をくれる子だった。
私もたくさん手紙を書いた。
先生のご厚意で保健室で行われる“特別な補講”をよく一緒に受けてくれた。

「あなたが高校を辞めると聞いて彼女泣いていたわよ。」
信頼していた先生がコソッと教えてくれた。

それでも、私が通信制高校に変わってからも、彼女とのお付き合いは何も変わらなかった。

私より1年早く大学生になった彼女に誘われ、私も京都の街でたくさん遊んだ。
そう、彼女は名古屋から京都まで新幹線通学をしていた。

彼女を通して、高校の同級生との飲み会に参加させてもらったこともある。
私には無い同級生とのつながりも彼女が運んできてくれた。

彼女が結婚して神戸に引っ越してからも、1年に1度は会って、呑んで、笑って、語った。

私には彼女がいてくれたから、登校拒否も保健室登校も乗り越えられたのだと思う。

私の中にある彼女の記憶が、あの高校での苦しかった日々の記憶を打ち消してくれる。

私はあの高校を選んだことも含めて、自分の進路や生き方に後悔はない。
でもそれは、彼女が“あの時”出会ってくれたからだと思う。
あの一番しんどかった時に、彼女が出会ってくれた、繋がってくれた、理解してくれた。
それが私の救いだった。

久しぶりに懐かしい感覚に襲われた。
そんな懐かしさを胸に彼女に逢ってこようと思う。
お互いおばさんになったけれど、逢うと時があの頃に戻るのだから不思議なものだ。
大切な大切なお友達。
これからも永くお付き合いが続きますように。