記憶の整理と備忘録を兼ねて、極めてローカルかつ少しややこしい話を書き残しておきます。

 南光台団地―宮城県仙台市泉区―を縦断した「南光川―天ヶ沢―」は八乙女中央公園―同泉区―を下ったあたりで「前ヶ沢」と合流し、「前ヶ沢川」と名を変えて二級河川「七北田(ななきた)川―冠(かむり)川―」に合流します。つまり、「南光川―天ヶ沢―」は「七北田川―冠川―」の支流「前ヶ沢川」のさらに支流ということになります。

 

 

前ヶ沢川と七北田川の合流点

 

 その前ヶ沢川は、二級河川に関する河川法の規定を準用する「準用河川」に指定されており、仙台市のHPによれば管轄対象となる総延長は510mとのことです。ところが試しに地図上で測ってみると、南光川合流地点―松森字不動と松森字堤下の境-から七北田川合流地点までは480mほどしかありません。終点を七北田川流路の真ん中あたりまで伸ばして測ってみてもせいぜい500mであり、残り30mないし10m分は南光川との合流地点から前ヶ沢川本流を遡った区間ということになりそうです。

 とりあえず実際に現地を訪れてみると、前ヶ沢川本流は河川管理用道路の下を排水管で横切り、支流にあたる南光川―天ヶ沢―に注ぐ形で合流しておりました。現地を踏んで思うに、むしろ南光川―天ヶ沢―の方がしっかり整備されていて、いかにも本流のような雰囲気です。それ故か、私の手元にあるいくつかの地図は南光台6丁目と八乙女中央公園の間の流路、すなわち合流前の南光川―天ヶ沢―流路部分に沿って「前ヶ沢川」と表記されてあります。しかしそれはおそらく誤謬でしょう。

 

前ヶ沢と南光川の合流点

 

 この南光川―天ヶ沢―は上流部でもややこしくなっております。川の水源からみて南西側、すなわち分水嶺を越えて反対側に下る坂道あたりが南光台地内でもないのに地元の人たちから「南光沢」と呼ばれているのです。

 

 

 それもそのはず、天ヶ沢水源地―南光台一丁目公園付近―からみて南西側分水嶺を越えたあたりの地名はかつて「南光沢―仙台市原町小田原字南光沢:現仙台市青葉区小松島四丁目―」でありました。そういう名の沢があったようです。少なくとも私にその沢の確固たる記憶はありませんが、そのあたりの低い窪地に住んでいた同級生の自宅前に小さな水路があったことは覚えております。水路脇には笹が多く、その同級生と一緒に笹舟を浮かべて遊んだ記憶もありますが、今思うに、その水路も南光沢の名残であったのでしょう。

 古い地形図の等高線から南光沢の水系を推測してみるに、現在のバス通り北西側に平行していたものと思われます。「東北高等学校」や「東北医科薬科大学」の臨む「小松島沼―海老堤―」はその流路上であったようです。いみじくも『小松島地区平成風土記(小松島学区町内会連合会・他)』によれば、小松島沼は小田原田圃の用水とするために三本の谷の合流点を堰き止めて人工的に造られた溜池であったとのことです。

 

小松島沼

 

 大リーグのダルビッシュ有さんやフィギュアスケート金メダリストの荒川静香さん、羽生結弦さんといった世界的なトップアスリートを輩出し続ける「東北高等学校」は、地元で「南光」と俗称されております。「学校法人南光学園」によって運営されているからでありますが、この法人名は、昭和四(1929)年に東北高校の前身となる「東北中学校」が件の「南光沢地区」に移転したことから始まります。移転の翌年、昭和五(1930)年「財団法人東北中学校」が「財団法人南光学園」と改称し、その後、昭和二十六(1951)年には「学校法人南光学園」と改称しました。なにしろ東北高校は高校野球甲子園大会の常連校でもあり、とりわけ昭和三十四(1959)年の夏大会で4強入りしたこともあってか「南光」の知名度も高まっていったものと思われます。

 おおよそその頃から「南光台団地」の開発が始まりました。「南光台」とはいえ、その底地は「松森字天ヶ沢」であり、「小田原字南光沢」ではありません。昭和三十九(1964)年当時の国土地理院発行地形図では「天ヶ丘」と表記されており、開発当初は底地名の「天ヶ沢」を生かした団地名であったようですが、その後「南光台」に改称されていきました。南光沢を遡った高台という地理地勢的な意味もさることながら、むしろ知名度の高まりつつあった「南光」を団地名に取り入れた方が「天ヶ沢」よりも販売戦略上得策と判断されたのかもしれません。戦後の貧困から脱却しはじめた高度経済成長期ということもあって、南光台の人口はどんどん膨れ上がりました。開発初期の南光台に土地を購入したという恩師によれば、当時の地価はロンドンのシティでも土地を買えるほどであったとのことでした。日英両国の異なる不動産事情を杓子定規に単純比較はできないにしても、日本の地方都市郊外の地価がイギリスの首都に匹敵していたとは衝撃的です。仙台駅から5キロ圏内の南光台は人気が高く、昭和六十年代には居住者数が三万人に近かったと記憶しております。いつの間にか「南光台」は知名度において「南光沢」をはるかに凌駕し、「天ヶ沢」も「南光川」などと改称されてしまったものですから、「天ヶ沢」と「南光沢」は名実ともに人々の記憶から消えつつあるようです。

 そこで、微力ながら旧地名消失へのささやかな抵抗と無知への反省、地元学への啓蒙を試みんと、そもそもの地名由来を振り返っておきます。

 「天ヶ沢―尼澤―」の地名由来については詳らかでありませんが、たびたび触れているように、当地には奥州藤原系の女性「徳姫―徳尼―」が建てた「白水阿弥陀堂-福島県いわき市―」の系統を引く尼寺があったようで、「尼」はいわずもがなですが、「白水」も「あま」と訓むことが出来るわけであり、「天ヶ沢―尼澤―」の地名由来はそのあたりにあるものと推察しております。

 一方「南光沢」の地名由来については比較的情報が残されており、なにやら仙臺藩祖伊達政宗の時代に小笠原流の弓法に精通していた武器職人「南光坊永心」に因むようです。南光坊は「天神社―榴ヶ岡天満宮の前身―」の別当「天照寺」の僧の子孫と伝わります。 

 その南光坊が目を治すためにこの地の水神様―古井戸―にお籠もりをしたこと、およびそれが地名由来となった旨が南光台第一町内会創立五十周年記念誌『わがまち五十年』にみえます。同書はその水神様を「南光沢のお不動さま―小松島不動尊―」と因果付けており、「霊験あらたか」ということで、目を患った人達が目を洗うためにここの清水を汲みに来ていたのだそうです。

 しかし、この「小松島不動尊―南光沢のお不動さま―」について、前述『小松島平成風土記』にはこうあります。

 

―引用―

詳しくお話を聞くつもりで訪問すると、佐藤昭典氏著、「仙台城下の湧水」(平成13年発行)を手渡された。その著書によると、「昭和4年から6年頃にかけて現在の小松島四丁目から南光台の入り口にかけて所有地の造成を行っている時、工事従事者の間に眼の病が流行したので祖父省吾は、仙台中山の鳥滝不動明王に祈念し、この地に小屋掛けして、ご分霊を祀った」それが小松島不動尊である由。

 

小松島不動尊

 

山神碑

 

 南光台第一町内会創立五十周年記念誌『わがまち五十年』、『小松島地区平成風土記(小松島学区町内会連合会・他)』とも、情報提供者は同じ家の方、すなわち小松島不動尊を管理している山田家の方らしいのですが、世代差であるのか齟齬が生じております。地名由来が南光坊に因むことは揺るがないにせよ、小松島不動尊については後者の伝えるエピソードの方が現実的です。この境内はおそらく昭和に入ってから情報提供者の祖父「山田省吾」さんによって開かれたのでしょう。境内にある山神碑にはその名が刻まれております。もちろん、南光坊にまつわるなんらかの水神信仰が既にあって、それを「鳥滝不動尊―仙台市青葉区中山―」の力を借りて中興したのが清水沼の山田家であった可能性は高いと考えております。

 

 

鳥滝不動尊

 

 それにしても、管理者の山田さんはこの近所の方ではなく、「清水沼―仙台市宮城野区―」にお住まいの方のようです。今ではピンときませんが、清水沼も南光沢もかつては同じ原町小田原地区で括られていたのであり、いうなれば「梅田川」水系の圏域であるとも言えます。

 

南光沢と清水沼の位置関係

 

 旧原町小田原地内を貫く「梅田川」は最終的に「七北田川―冠川―」と合流して蒲生から仙台湾に注いでいるので、広く括れば「天ヶ沢―南光川―」と同じ七北田川水系に属しているともいえるわけですが、七北田・梅田両河川の合流は江戸時代の流路改変によるものであり、近世以前は各々異なる水系でありました。

 

七北田川と梅田川の流路

 

下流側から眺めた七北田川と梅田川の合流点

 

上流側から眺めた七北田川と梅田川の合流点

 

 異なる水系であったということは、前稿でも触れたように、原町小田原の人たち、言い換えれば梅田川流域の人たちがことさらに七北田川水系の水神―天ヶ沢不動尊―を崇敬していたことには何か特別な理由があったとみるほかはありません。やはり、その参詣習慣は「小萩ものがたり」と縁の深い平泉系尼寺があったからなのでしょう。小萩尼は、殺害された奥州藤原和泉三郎忠衡の娘を匿いながら國分荘玉手崎―原町小田原―に落ち延び、その地で人生を終えたと伝わっております。

 とりわけ山田さんの住まう清水沼地区は、かつて存在した「清水沼―現:清水沼公園―」なる沼がそのまま地名になっているわけですが、その沼は小田原田圃を潤す「梅田川」増水の際、榴ヶ岡(つつじがおか)公園―吾妻鏡にみえる國分原鞭楯(こくぶがはらむちだて)址―北東の渓谷が隘路となってあふれた水が頻繁に流れこんで大沼と化していたものと考えられております。したがって近世以前のその一帯がたびたび水害に悩まされていたのであろうことは想像に難くありません。仮にご先祖様が地域の旧家であったのならば、お不動さまなり水神への畏怖心が代々家訓のように伝えられていたのかもしれません。

 

清水沼氾濫イメージ

榴ヶ岡丘陵に阻まれて溢水していたという梅田川

 榴ヶ岡丘陵を貫いた後の梅田川は「苦竹(にがたけ)」エリアを抜けて仙台湾に流れていきます。苦竹は『余目記録』に宮城本郷と記され、往古は宮城郡の中心であったことが推察されます。おそらく榴ヶ岡丘陵に阻まれて苦竹より上流には船で遡れなかったがゆえに、苦竹がターミナル化し「本郷」と位置付けられたのではないかと想像しております。

 

 末筆ながら、本稿を書いていて、生まれながらの地図好きを自称して憚らない自分が極めて身近な川についてすらよくわかっていなかったことに気づきました。自分の未熟さを噛み締めつつも、地名や郷土史は意識しておかなければ百年も待たずして忘れられていくということをあらためて気づかされた次第です。