アテルイに冠された姓として「大墓公」というものがありますが、この訓については判然としません。私はこれまで「たものきみ」なり「おおものきみ」など、なるべくその時に参考にしていた論稿に合わせて都度に訓を変えてきました。なにしろ諸説紛糾しているというのが現状であり、これといった定説的なものはありません。中には、そのまま「おおはかのきみ」とみる向きもあります。

 例えば『ゆりかごの大和王朝(本の森)』の千城央(ちぎひさし)さんは、「大墓(おおばか)」、すなわち国家に対する反逆者として扱われたため「大馬鹿者」の意味を込めた悪口偽名で史書に載せられた旨を講演で語っていたとのことです。他でもない千城さんが語ったのであれば、おそらく栗原地域の旧家にそういう言い伝えでもあるのだろうとは思いますが、少なくとも我が国の文献上で確認されている「馬鹿」の初出は『太平記』というのが現段階における多数派的認識であり、時代的な整合性に疑問が残ります。

 もちろん「馬鹿」の語源は「愚か」を意味するサンスクリット語、あるいは『史記』の故事「鹿を指して馬となす」にまで遡ると考えられているわけですから、アテルイの時代には既に存在していたのであろう語彙なわけですが、現在のように愚か者を罵倒する悪口として使われていたのかどうかまではわかりません。南北朝時代を描いた『太平記』の成立は当然南北朝時代以降の室町時代、すなわち14世紀であり、少なくともその段階では「愚か者」の意味ではなく「狼藉をはたらく者」であったようです。もちろん「狼藉」という意味でも朝廷からみたアテルイには十分はてはまりそうではありますが、アテルイを「大墓公」と記す『類聚國史』の成立は9世紀、すなわち我が国における「馬鹿」の初出と思しき『太平記』の約500年前です。はたしてその当時の公卿らが悪口としての「馬鹿」を認識かつ採用し得ていたものか、千城さんの語るところを受け入れるにはやはり勇気が要ります。

 さて、多数派とみられる「たも」は万葉仮名による訓であるようです。すなわち、異民族とみなされていた蝦夷による発音が、『日本後紀』やその逸文を収める『類聚国史』なり『日本紀略』の編纂者によって音訳された上での万葉仮名が「大墓」なのであろうから、その訓は「たも」であろう、ということのようです。

 それに対し、対抗説?の「おおも」は常訓の「大(おお)」と呉音の「墓(も)」を組み合わせた解釈と思われます。何故常訓で「おおぼ」、あるいは呉音で「だいも」としなかったものか、常訓と呉音をあえて組み合わせて訓じているのはどうにも不可解であり、もしかしたらどこかにそう伝わっていたものがあり、その訓ありきで解釈されたのでしょうか。

 いずれ、最近になってあらためて知ったことですが、そもそもそれらの諸説はいずれも比較的近年になってからのものであるようです。そうとも知らず、私はいちいち無駄に深読みをしていたのでした。「たも」とはどういう意味か、「おおも」であったならばどういう意味になり得るだろうか、などなど・・・。そもそも原典当時の訓が不明なわけですから、それらの深読みは土台のないところに柱を立てていくような心もとないものでしかありません。しかし、せっかくいろいろ調べながら考えていたので、自分のための備忘録として書き留めておきます。

 まず、「たも」の訓から私が連想していたものは、福島県郡山市南東端の地名「田母神(たもがみ)」でありました。当地は郡山市に併合される以前「田村郡」に属しておりました。田村郡は「安積(あさか)郡―古代の阿尺國エリア―」の阿武隈川以東に割かれた荘園―免税地:田村荘?―が「郡」として分立したもののようですが、坂上田村麻呂の伝説において最も濃密なエリアであることから推察するに、蝦夷征討の最大功労者たる坂上氏へ恩賞として与えられた地であったのかもしれません。いうまでもなく坂上氏、とりわけ田村麻呂はアテルイを投降させた桓武王権下最優秀の武人なわけであり、少なくとも中世にはその後裔を自称して憚らない田村荘司氏が田村郡を領しておりました。南北朝時代、田村荘司氏は南朝方として北朝軍と戦って敗れたので、田村荘は白河結城氏や足利氏に没収されたわけですが、その後、勢力を強めていった三春田村氏が田村地方を支配するに至ったようです。父祖伝来の地を取り戻したといってもよいものなのか、とりあえず三春田村氏の祖「三春利顕―盛顕?―」は田村荘司の遠孫を称しておりました。

 参考までに、『口承文芸刊行物「郡山の地名」(郡山市教育委員会)』による「田母神」についての解説を眺めておきます。

 

―引用―

「田母神」の名が歴史上に現れるのは、現在確かめられる最も古い記録は康生年間(一四四五~五七)である。時の庄司が田村郡一帯と安積の一部を支配していた頃、田村持顕が田母神の地に田母神鶴ヶ城(通称「舘山」)、霞ヶ城(通称「台」)、庚申舘の砦を築き次男重顕にこれを守らせたといわれる。また、姓を田村から田母神に改め田母神重顕と称し田母神氏の祖となった。

~中略~

 「田母神」という地名の由来であるが、現在まで調査を進めてきたが確たることは未だ不明である。一つの仮説として、毎年正月になると家の門口に門松を立てるように、水田にいる「田の神」に対して苗代に門松を祀って豊作を祈願する、生命の母である「田の神」に祈りを捧げたことが「田母神」の由来ではあるまいか。~以下省略~

 

 田母神の地を領した田母神氏も田村氏の分かれでありました。なにしろ田村氏は坂上田村麻呂の後裔を自称する一族です。田村麻呂は朝廷軍をさんざん苦しめたアテルイを降伏させた人物であるわけですが、アテルイとモレの両賊首を平安京に連行した彼は、蝦夷地馴致のためにも両名を希望通り陸奥に帰還させる旨を進言していたようです。しかし蝦夷を忌み嫌う公卿らの賛同は得られず、アテルイ・モレの両名は河内國にて処刑されたのでありました。田村麻呂はおそらく甘言をもってアテルイらに投降を促したものと思われますが、融和的に連れてきたはずの両名に対する無慈悲な処刑にどのような思いを抱いたものか・・・。

 岩手県南から宮城県北にかけて散見される鬼神伝説、すなわち悪路王なり大嶽丸なり赤頭高丸なりに関する伝説について、私はアテルイとモレへの処刑を正当化せんとする陸奥國府側のプロパガンダに由来するものであった可能性を窺っております。

 その一方、ほぼ同じエリアで台所の柱や竈の上に憤怒の形相をしたカマガミサマを祀る民間習俗もみられます。それらの分布域は照井太郎伝説のそれとも類似しており、カマガミサマのモデルがアテルイであった可能性を考慮に入れておくべきと私は考えております。何故なら、照井氏の中にはアテルイの子孫を自称している人たちもいるからです。怨霊化の懸念されたアテルイやモレに対する畏怖の念が消えない当該エリアの庶民からすれば、なんらかの形で「神」として崇め祀らずにはいられなかった可能性は大いにあり得たと思うのです。

 

道の駅「上品の郷」―宮城県石巻市―で展示販売されていたカマガミサマ

 

 したがって、仮に「大墓」の訓が「たも」であったとした場合、「田母神(たもがみ)」は「田の神」ではなく、アテルイを神格化した「大墓神(たもがみ)」であった可能性も考えられるのではないでしょうか。前述のとおり、田村地方は坂上田村麻呂伝説最濃密エリアです。それ故に田村麻呂のアテルイ供養に根源があった可能性を勘ぐってしまうのです。

 尚、宝賀寿男さんは「幕藩大名の田村氏も坂上田村麻呂後裔と称したが、実際の出自は岩城支流かとみられる―『阿倍氏(青垣出版)』―」とみておりました。とりわけ、江戸時代の田村郡三春の地に移封された秋田氏が安倍貞任の裔を称していたわけで、陸奥安倍氏と岩城氏が各々石城國造の流れをくむ系譜同士であったのであろうことを鑑みるならば、その可能性は高いと言えるでしょう。

 なにしろ石城國造家の事績を伝える記録は平安時代あたりからぱったり途絶えているフシがあります。女系一族の可能性もあると想像しているわけですが、さすれば同系と思しき陸奥安倍氏や出羽清原氏、さらには奥州藤原氏の係累に変質して自然消滅していったのではないでしょうか。そして、田村麻呂の裔を称していた田村氏もその実は石城國造家の流れであったのかもしれません。とりわけ田村地方の領主は田村麻呂の裔孫であるべき不文律があったかに推察されますので、歴代領主はありったけの血縁関係をたどり、すべからく先祖を田村麻呂に結び付けたのでしょう。

 

田村氏の菩提寺「慧日山福聚寺―福島県田村郡三春町―」

 

 

 

 

 

 では、「大墓公」の訓が「たものきみ」ではなく「おおものきみ」であったとした場合はどのような可能性が考えられるでしょう。前述したように、この訓は常訓と呉音を組み合わせた不自然なものであり、なんらかの伝説に基づく訓ありきの可能性も考えられます。

 直感的に私が連想したのは、三輪山の神「大物主(おおものぬし)神」なり鳥海山の神「大物忌(おおものいみ)神」でありました。

 とりわけ「大物忌神」は「照井氏」の勢力圏を貫く「荒雄川―江合川―」の水神「三十六所明神≒瀬織津姫神」でもあるだけに、妙に示唆めいて感じられるのです。

 

荒雄川―江合川―流域の照井太郎伝説地

 

 もちろん、「おおものきみ」の「の」は「大墓(おおも)」と「公(きみ)」をつなぐ助詞にすぎません。したがって「おおもの」ではなく、「おおも」で意味を考えなければならないでしょう。しかし、そもそも「大物忌(おおものいみ)」自体が「オオモの忌み」を示唆めかせていた可能性についても頭をよぎるのです。すなわち、田村麻呂の献策を却下してアテルイを処刑した公卿らが、その祟りに怯えながらも「言霊信仰の性(さが)」でアテルイ怨霊化への懸念じみた公言が憚られ、それ故に鳥海山噴火の災害を暗黙の了解で「大墓公―アテルイ―」の怨念に結び付けた可能性もあるのではなかろうか、と思ったのです。

 念のため補足しておきますが、ここでの「大物忌」は伊勢神宮の最重要巫女を指すそれのことではなく、鳥海山の神としての「大物忌神」のことです。

 大物忌神が正史に登場する最初は『続日本紀』承和五(838)年、すなわち、アテルイの処刑―延暦二十一(802)年『日本紀略』―から36年を経た頃のことでありました。

 36年後といってしまうと、近世以前の「人間50年」的感覚ならば忘却に十分な年数にも思えますが、『三代実録』の貞観十三(871)年五月十六日条に「弘仁年中(810~824)山中に火を見る。その後いくらもしないうちに兵乱ありという」という旨が語られていることに私は着目しております。つまり、アテルイ処刑の記憶が比較的新鮮な時期に鳥海山が噴火しているわけですが、それが直後の兵乱の予兆の如く語られているのです。

 この記事は、飽海(あくみ)郡の山―鳥海山―が貞観十三(871)年四月八日に噴火して未曽有の災害をもたらしている旨を出羽國司が上訴してきた際の記録ですが、出羽國司は「もし鎮謝せずば、兵役あるべし」と、半ば脅しのように「鎮謝の法」なる祭事の施行を朝廷に催促しております。鳥海山大物忌神社発行の『鳥海山』は、この記事を「火を放つ山、鳥海山と戦の関係を記述した初見のものである」と説いているわけですが、鳥海山の噴火が夷狄の反乱と隣り合わせに認識されていたことが窺われます。「夷狄の反乱」で連想される筆頭がアテルイであった可能性は高いでしょう。アテルイが後の奥州藤原氏の如く奥羽全域を統べていた権力者であったとは思えませんが、「オオモ」には奥羽の亥狄全体に対する忌避の念が込められていた可能性があるように思うのです。

 ちなみに、アテルイを輩出したと思しき照井氏の守護神は「照日権現」であるわけですが、流域に照井太郎伝説地が散見される「荒雄川―江合川―」の流路やその水源「荒雄岳」は鳥海山からみて冬至の日の出方向に重なります。そしてその方向の先には奥州三観音のひとつ「箟岳(ののだけ)観音」を祀る「箟岳(ののだけ) ―宮城県遠田郡涌谷町―」があります。

 

 

 

 『涌谷町史』によれば、「田村麻呂将軍が賊赤頭高丸と悪路王を誅し、首は京に送り胴を岡の上に埋めたが、その際死者の屍体も埋めて塚を築きその上に観音堂を建てた」とのことでありました。荒雄岳や箟岳が鳥海山から見えるものかどうかは未確認ですが、鳥海山の神と荒雄岳の神が同じ大物忌神であることははたして偶然なのでしょうか。

 

 

 

 そもそもオオモとはなんぞや・・・。あくまで想像にすぎませんが、もしかしたら「a・u・m(オ・ウ・ム)」だったのではないでしょうか。凶悪な殺人宗教犯罪組織の名称に使われてしまったことで印象が悪くなってしまいましたが、本来これはインド由来の諸信仰において「三神一体」的な意味をあらわす呪文なり真言として神聖視されている言霊です。もしかしたらアテルイがその言霊を冠して名乗りを上げていて、その音訳として「大墓」の文字が付されたのではないでしょうか。

 いずれ、タモにせよオオモにせよ、「大墓」に対するそれらの訓はあくまで近年の有識者による見解にすぎません。すなわち本稿は仮説の上に軽はずみな想像を上塗りしてみただけの自己満足な備忘録に過ぎないわけですが、今後諸説の進展を期待したいと思います。