杉山ゼミ専用ブログ
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課題 勝川

労働経済の視点から物事を考えるとあらゆることが関連しているが、特に、以前学習したGoogle5つの採用基準と今回の教育の矛盾に対する考えは互換性が強いと感じた。
上野氏は、柔軟なimaginative教育を推進しているが、まさに、その教育によって生み出される労働力は、Googleが必要としている労働力である。Googleが世界有数の大企業であり続ける背景には教育が密接に関連していると感じた。日本の大学で上野氏が考えるような教育がなされているかは疑問である。その結果として、企業の業績に顕著にあらわれている。
 常識という概念にとらわれることなく、物事を多面的に捉え、柔軟に考えられるようにならなければいけない。杉山ゼミではその重要性について幾度となく学習してきた。残りの大学生活においても、教育を受ける立場として自発的に学習に励みたい。

課題 勝川

イギリス、アメリカの大学教育と日本の大学教育を比較した結果、やはり海外のほうが先端的な教育が成されていると感じた。

 まず、イギリスに関して特筆すべきは、大規模大学においても少人数の講義がメインで行われていることだ。そこでは多くの事前学習が必要となり、自ら学ばなければ講義についていくことはできない。これは、今の日本の大学教育ではまず達成されていないことである。杉山ゼミや労働経済論がなぜ先端的な教育と言われるのか、明確な理由を理解することができた。山下氏はアジアの学生は批判的、論理的思考力を表現することが苦手であると述べているが、杉山ゼミではまさにその力を養おうとしている。グローバル化する現代において、私たち日本の学生がグローバル市場で需要を生み出す人材へとなっていけるよう訓練してくださっていることを痛感した。

また、アメリカにおいても、日本とは大きく異なる教育方法であると感じた。アメリカでは大講義室で行われるような大規模な講義においても討論が重視されている。また、単位取得に関しても日本よりはるかに厳しい単位制度であり、日本のように簡単に卒業できるシステムではない。Googleやappleといった世界的な企業の排出の背景にはやはり大学教育のあり方が関連しているのだと感じた。

 江原氏は日本の大学教育のレジティマシーについても言及しており、日本もかつてのアメリカのように抜本的な教育改革が必要であると述べる。私もまさにその通りであると感じた。上述したように、グローバル化する現代で生き残っていくためには、批判的、柔軟な思考力を表現できなければならない。私の大学生活においてその訓練の場が与えられているのは、杉山ゼミと労働経済論である。この訓練の場でいかに人と対話し、考え、学べるかが私の労働者としての価値を見出す大きな一歩であると痛感した。

課題 勝川

 大学とは何か。その本質は考えることにある。三つの文章には考えることの重要性についてそれぞれ述べられていた。
 吉岡知哉氏は「大学は、社会や企業がその時々に求める知識や技術を身につけるためだけの、あるいは資格を得るためだけの場ではありません。」という。この思想について私は賛成である。それは、現実社会で求められる人材が単純な知識を持つような労働者ではなくなってきているからである。多様化する社会では、柔軟な思考力と適切な判断力が求められる。そのような人材を育成するのが大学であると考える。
その手段として、学生は考える力を養っていかなければならない。何が問題となっているのか、いかにして学ぶのかをまず考えなければならない。その積み重ねがリベラルアーツとなり将来社会に適応できる人材となると考える。
 上記の考察を踏まえ、履修授業と杉山ゼミの位置付けを論ずる。
上記では大学教育における考える力の育成の重要性について述べたが、今の大学教育でそれが成されているかは疑問である。配布されたレジュメをただ眺めるだけでは考える力はつかない。それに対し、杉山ゼミでは1人1人の考える力が育成されるような教育が成されている。いわば、反転授業である。大学は、杉山ゼミのような社会の縮図となる環境を作っていかなければならいない。
 このような環境を作っていくために、政府はどのような介入の仕方をするべきであるか。安倍総理が国立大の国旗掲揚、国歌斉唱を強制したことや、君が代訴訟に関する記事を読み、政府の介入の仕方に違和感を憶えた。大学において愛国心を植え付けることにどのような意味があるのだろうか。私は戦前の日本と同じ道を歩もうとしているようにしか感じることができない。そこには上述した自由に考える力を養う大学を構築しようとはせず、むしろ国の思想を植え付けるようにしかみてとれない。義務教育においても、私たちは、国旗掲揚、国歌斉唱を幾度となく行ってきた。しかし、そのことについて違和感を憶えることはなく、行うことの意味についても教育されなかった。「自由に考える」ということは、将来の日本を左右する大きな問題とも直結しており、もう一度、教育のあり方について、何が問題となっているのか、どのような考えを持つべきなのか、しっかりと意思表示をしていかなければならない。
 また、この問題に対しては、学生自身の意識改革も成されなければならない。
 今回私が課題の提出が遅れてしまったことは、今回の課題と関連し極めて重要な問題であると認識した。「杉山ゼミのような社会の縮図」と上記したが、社会でこのような基本的なルールが守れない労働者はどうなってしまうのかを考えたときに、やはり今回の課題に対する取り組み方は反省しなければならない。二週間という与えられた時間の中で着実に課題を遂行するためには、時間の使い方を考えなければならない。体調不良であったとしても、二週間の使い方を見直せば確実に提出が可能であった。今後の課題に関してもリスクマネジメントを怠らず、与えられた課題に真摯に取り組みたい。

課題 勝川

 二つの文を熟読し、分析し考えたことを述べる。どちらも伝えたいことは同じであると感じた。
 一つ目は自主性や自由な発想を尊重したゼミであること。
 二つ目は現実社会で起こっている様々な問題をゼミで取り扱うことである。
 しかし、事前に準備した原稿と実際に話した内容では、長さや話し方に差が出ている。
 Appleやイスラム過激集団の具体的な例を出した前者は確かに杉山ゼミについて魅力をひくような紹介文であるが、知識の浅い新入生には少し受け入れ難いように感じた。
 一方後者は簡潔でより伝わり易い文になっている。伝える相手の事を考えたプレゼンテーションが行われたのではないかと考えられる。
 杉山教授がこの紹介文を作成することに多くの時間を割き、そして第三者に相談していたことを踏まえると、やはり人に物事を伝えることの難しさや、重要性について考えさせられる。これまでのゼミで様々なテーマについての論評をしてきたが、文を作成するに当たって、まだまだ見直さなければならないことが多いと自省した。
 自分の考えやアイデアが少しでも分かり易く、理解してもらえるような論評ができるようになりたいと感じた。

労働経済論論評 勝川

4月29日の労働経済論では、学生がアルバイトと学業のどちらに重きを置くべきかという議論であった。この議論に関しては昨年度も取り上げられたため、自分なりの見解をこれまでの学習と結びつけて導くことができた。
学生の意見で多くみられたのは、「アルバイトは社会勉強ができる。礼儀やマナーが実践的な形で身に付けることができる。大学では学べないことが学べる。」ということであった。しかし、この意見について私は反対である。それは、大学教育の場こそが社会的規範を構成し人格形成が行われる場であると考えるからだ。
労働経済論や杉山ゼミでの運営からすればそのように考えることは容易である。自主性や誠実性を喚起するような熱意のある教授の指導、そして学生1人1人が自ら問題提起し、プレゼンテーション、ディスカッションをする。このようなサイクルによって人格形成が成される。
新聞も読まず、教養のない人材を企業は適切な労働力としてみなすだろうか。自分も含め、学生は学業における労働をもう一度見直さなければならないと感じた。
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