6月1日
国分寺の歴史を勉強しに、武蔵国分寺跡資料館に行って来ました。
もともと、国分寺のある武蔵野は、多摩川の府中崖線、国分寺崖線に沿っているため、湧き水が豊富で、縄文時代や古墳時代などの遺跡も数多くあります。
7~8世紀の白鳳時代後期に制作されたと考えられている「銅造観世音菩薩立像」
古の都奈良からはるか東のここ武蔵野は、東山道とその支路で繋がっていました。
東山道は近江、美濃、信濃、上野などの国を通り、出羽、陸奥へ至ります。
武蔵国府へは上野国新田駅(今の群馬県太田市)付近で分岐し、そこから南下します。
今の西国分寺駅近くに幅12mほどの広くて真っすぐに造られた官道「東山武蔵路」が通っていました。
この道は東村山も通っていました。
この立派な道は朝廷からの伝令を伝えるための道で、広い道は権力を地方に誇示するためのものであったらしい。
天平時代(750年頃)に創建された武蔵国分寺の当時の様子模型
源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、ここ関東を中心に政治が行われるようになり、鎌倉と関東各地を結ぶ交通路が整備され、国分寺にも鎌倉上道が通過していたと思われます。
1333年、新田義貞と鎌倉幕府との戦い(分倍河原の合戦)により国分寺は焼失、しかし、すぐにその義貞により再建。
江戸時代の国分寺村
江戸時代の国分寺市域は幕府代官の支配地で、2カ村と8つの新田で構成されていました。