東村山に初めて人が足を踏み入れたのは今から約2万年前の旧石器時代のことです。

縄文時代には水の得られる狭山丘陵地帯のふもと、前川・北川そして柳瀬川などに沿って多くの遺跡が残されています。

やがて奈良・平安時代になると北川・柳瀬川の低湿地に沿って、多くの集落ができました。

住民はわずかな水田と小規模な畑によって、現在の多摩湖・廻田・諏訪・野口・久米川・秋津などで生活を営んでいたようです。

4世紀ごろから多摩地域にも大和文化の影響があらわれ、7世紀半ばから8世紀になると武蔵国府中に国府が置かれ、東村山市域を南北に貫いて上野国と武蔵国を結ぶ官道「東山道」が通じていました。

鎌倉幕府が成立すると「いざ鎌倉」への道として各地の道路が整備され、東村山地域を貫く道は鎌倉街道の中でも「上ツ道」として、久米川は宿駅として軍事的・経済的にも重視されたようです。