大学4年の秋,進学するか公務員を受験するか悩んでいた頃だった。


たまたま学部の掲示板に,法律事務所の事務員募集の広告を見付けた。



「これだ」と感じた。



自分の人生を変えてみたい。ここに行けば何かが見えるかもしれない。


そんな思いでアルバイトに応募することを決めた。



アルバイトの応募にあたって,履歴書とA4用紙1枚分の何かが必要だった

A4用紙1枚に何を書けば良いかわからず,なんとなく夏目漱石の「こころ」の感想文を書くことにした。


「こころ」を読んだのは,おそらく高校1年生のときの現代文の教科書だった。


詳細は定かではなかったが,提出締切まで時間がなかったので,なんとなく覚えていることや印象深かったことをA4用紙1枚にまとめた。



すぐに面接の連絡があり,事務所に赴くと,普通の住宅マンションの1部屋で,家のような印象の応接間に通された。



数分待つと,かなり年配のおじいちゃんが奥の部屋から出てきた。


弁護士の浦田です。


おじいちゃん先生が言った。



そこで持参した履歴書と作文を確認された。



すると,おじいちゃんは夏目漱石が好きで,特に「こころ」が大好きのようで,詳細についてめちゃくちゃ質問された。


答えられない私を尻目に薀蓄(うんちく)を語り始めた。



そして「こころ」についての独自の見解を話し始めた。



Kはなぜ自殺したと思う?

 ―好意を抱いていたお嬢さんが,先生を選び,失恋したからではないでしょうか。



それが一般的な見解ですね。

私の考えはこうです。


本文にもあるように,Kは裕福な家に引き取られ,医学部に入学するために育てられ大学に入れてもらったのに,育ての親を裏切り,実際には大学で哲学的なことを専攻し,仕送りしてもらえず,働くこともしない金がない貧乏学生です。


一方の先生は,それなりの家庭で育てられ,大学に入学し,割合一般的な学生生活を送っています。


そしてKは寡黙でどちらかというと気難しく,何を考えているかわからないような性格です。


先生は,Kとは対照的な社交的な性格をしています。


先生と,Kのどちらをお嬢さんが選ぶと思いますか?


誰だって先生を選びます。



つまりこういうことです。

Kが何故自殺をしたのか。

それは,もちろん失恋の辛さもあったでしょうが,1番は先生たちに対する恨みです。


先生とお嬢さんが結婚すれば,奥さんと3人で暮らすはずだった家の1間で頚動脈を切り自殺をし部屋を血まみれにしてしまえば,家に住み続けることはできないし,売ることだってできません。


先生もお嬢さんも奥さんも苦労するでしょう。



「こころ」は世間一般で言われているような切ない物語ではありません。

私はそう思います。

ただ,今までに誰一人として私と同じ解釈をした人はいませんでした。





私は「こころ」に対する浦田先生の見解を聞いて,すごく感心してしまった。


こころを読み終えた後に心がざわめいた理由が少しわかりそうな気がした。



そんなこんなで,私はこの弁護士の先生のところで働くことに決め,採用も決まり,年明けから勤務開始することになったのである。






1話完


2話 初めての事務員のお仕事とおじいちゃん先生