テーマとしては極端すぎますね笑笑

自分で最初のブログタイトルを書きながらジワリました。

どっちが良いという話をしたいわけではありません。どっちが良いは本当にその判断が必要な時で、選んだ後に行動が伴わないとその選択や選択までの思考は大して意味がないと思います。

 

では、このテーマをを選んだのは、とても私的な理由です。

私は子どもの頃、あまり物事を深く考えない子でした。自分がする行動が相手にどういう影響を与えていたのかその頃はほとんど意識していませんでした。ただ、まぁ色々あって、高校ぐらいから現実の問題と向き合えなくなるくらい、深くまで一つの物事を考えるようになりました。

 

よく親と友達にほんとにずっと考えてるよね、考えても意味ないじゃん、考えるの好きなんやね、と言われました。でも自分的には、少し違った風に考えるということを捉えていました。考えると落ち着く、みたいなところが実際感じていることでした。感情が追い付かないことが生きている多々あります。待ってほしいのに待ってもらえないときが多々あります。意識を向けたいことに向けられないことが多々あります。そういうことを経験したので、考えられるというのは個人的に幸せなことだし、考えられるだけの余裕があるとも言えます。

 

考えるのが精神安定剤になっているのかもしれないですね。

 

けれど、考える、自分にとっては自分の状態を問い続けることもこれに含まれますが、それをし続けることはだいぶ短い期間においてだいぶ不安定な自分を生み出すことにもつながります。苦しい時になぜ苦しいかを考え続けても、答えは出ません。原因、解決方法が分かっても、その解決方法を実行できるか分かりません。考えるは自分の精神安定剤にもなる一方で、常にゴールのない道を走らせ続けます。これはとてもしんどいことです。

 

色々ぐちぐち話しましたが、今書けるのはこんな感じです。また気になって考え出すかもしれないです。

個人的には、問題解決として考えるのはだいぶ得意な方です。割と的確に目の前に起き居ている問題の自分が取れる最善手を考え付けます。もしそれが後々最善手でなかったなら、周囲の意見やフィードバックをもとに改善することもできます。ただ、我慢しなければいけない状態で考え続けることはとても過酷です。

 

昔、カウンセラーの先生に、○○さんは恒常性がすごく強いのかもしれないね、と言われたことがあるのですが、自分は、色んな手段を使って、自分自身の恒常性を高めていっているような気もします。考えることもしかり。ただ、その恒常性を求めすぎるあまり、しんどいと感じることが多々あります。というのが、今のところの見解です。他にも要因は考えられるのですが。

 

苦しいに対して現実の手段で答えられないと感じてしまったとき、考えるという行為を通じて精神の世界に逃げ込んでいるのかもしれないです。

 

この世の中は理でもないのに、逃げられない苦しさがいっぱいあります。

頑固な自分は、逃げられない苦しさが理だとまだ認めたくないです。認めたからといって苦しくなくなるわけでもない。

ずっと模索していきます。

 

後半だいぶ妄想に拍車がかかってしまったぁ(笑)

受け入れたら楽みたいなことはよく言われるけど、私はそうは思いたくない。

生きている限り、その考えに抵抗します。

そういう受け入れたら楽という考えも、世の中を生きていくための真理のようで、そうじゃないんではないかと思っている。

若いって言われそう笑笑

すっごい、適当なフィーリングだけど、受け入れないならどうすんのっていうのにはぜんぜん応えられないけど、受け入れてどうにかなるの?っていう時代なんじゃないかなと思って、自分の感覚を信じています。

 

かっこいいこといっちゃったけど、まぁ私が世の中の感覚にマッチしてない可能性もあるから、人並みに生きていけるように保険もかけとく。すっごくしんどいけど。自分の肌感覚と違うことを保険でかけるためにしてるからね。まぁ、どっちに転んでもいいかな。

 

はいっ、また妄想がすごーーーい(笑)

これでもまともに社会人としてきちっと働いてるから許してちょんまげ。

未来にどんな可能性があるかは誰も分からんのやから。

 

また気が向いたら別のテーマでブログ更新します。

 

読んでくださる方がもしいたらありがとうございます。

シーユー。