荒地   久しぶりの「法華経」ブログです。中断とさせて頂いたのが4月のことで、草野さんと喜多山さんがお住まいの街の市長選挙にかかわって、このブログに割ける時間が取れなくなってのことでした。その旨のお知らせでは、6月に再開と言われていたのですが、もう9月です。おふたりともコロナにやられたんじゃないかと心配してたんですが(笑)。

 

喜多山  わたしは大丈夫だったんですが、わたしが暮らす高齢者用集合住宅でクラスターが発生しましてね、3週間近く「クルーズ船」状態だったんです。

 

草野   「クルーズ船」って言ったって、もう皆さん、何んのこっちゃ、って感じじゃないの?そのくらいこの2年は世界的な大激動だからね。やれコロナだ、オリンピックだ、ウクライナだ、と皆さん、一日中テレビに釘づけになりながら、自分の街でとんでもない政治が行われているなんてことにはまったく関心を示さない。すごいもんだ、と思ったね。

 

喜多山  それは市民だけの問題じゃないですよ。結局われわれが支援していた市長候補者は、現職市長に大差をつけられて負けてしまいましたが、なぜそんなにあっさりと負けてしまったのかという総括はほとんどなされていない。支援した関係者も「やっぱり現職は強いなぁ」で終りですよ。これじゃ、いつまで経ってもこの街は変わらないなと思いましたよ。

 

そういう現実を目の当たりにすると、結局は「政治や宗教の話をしても壊れない関係」を、日常的な努力で地道に築いていくほかはないんだ、と改めて思いましたね。

 

久能   結局、そういうことなんだと思います。「政治と宗教の話をすると関係が壊れる」というのも、わたしたちの日常的なふれあいというのは、その意味で言えば「壊れない程度の関係」でしかない、とも言えるんじゃないでしょうか。

 

常不軽菩薩の話にもどりますが、これはお釈迦さまの前世の物語として語られるわけで、「ほんとのこと」を言って皆から嫌われてしまうと、結局は「いじめ」に遭ってお終い、という物語としても読めますね。

 

ですから、お釈迦さまでも常不軽菩薩の段階では人々に伝えることはきわめて難しかった。だからもう一度生まれ変わって修行しなければならなかった、ということになるんじゃないでしょうか。この常不軽菩薩は、大乗仏教の運動では「理想の菩薩」として賛嘆されることが多いので、こんなことを言ったら袋だたきに遭うかも知れませんが(笑)。

 

草野   それで常不軽菩薩が生まれ変わってこの娑婆世界で修行した結果、前世ではどこがマズかったとお釈迦さまは思ったんですかね。

 

久能   いちばん変わったのは、この「法華経」の「序品」の場面に描かれています。なかなかお釈迦さまが説法を始めないので、「もったいつけるんじゃないよ」みたいな感じで席を立っちゃう人たちがいましたよね。そのときお釈迦さまは止めもしなかったじゃないですか。

 

それは決して「あんな連中は真理を聞いても理解できないんだから、出て行ったほうがいい」という態度じゃなくて、「まだ彼等には真理を受けとめるだけの因縁が熟していないのだ」と、全部を見通して黙って見送るだけなんですね。

 

仏教の経典で「人(にん)を見て法を説け」と諭しているのは、そういうふうに、受けとめられる相手か否か、受けとめられたとしてもどの程度か、ということを冷静に見極めて語れ、ということでしょう。「菩薩」の修行もそこまで行かなければならないと言っているのだと思います。

 

それともうひとつ。こうして皆から馬鹿にされ続けた常不軽菩薩は、死ぬ間際になって法華経が天から聞こえて来て、それで自分の寿命を延ばして、その法華経を伝え始め、それまで自分を馬鹿にしていた人々までほんとうの救いへと導いた、とされています。

 

ですから、常不軽菩薩が説く法華経は、経典を読んでのことじゃない、人から教わったことでもない。自分が相手を尊重するという態度と行動が、法華経が説くところとおなじなのだ、ということをここで伝えようとしているわけです。つまり、実践こそが重要なのだ、と。

 

そしてこれは仏教の基本のキの字だと思うんですが、実践してうまく伝えられることもあるし、うまく行かないこともある。でも、それを通じて法華経の真理とは何かということを、身体で識っていく。そのプロセスこそに意味があるんだ、ということを言っていると思います。

 

(第70話おわり)