有難うとあたりまえ
仏教の法話でよく聞く言葉に「有難うの反対はあたりまえ」という言葉がある。もうなん何十年前かそのフレーズを聞いた時、私の中で思った事は「そりゃそうだろ、言うまでもない」こう思っていた。去年の10月私の3歳になる娘が入院する事になった。入院から病名が判明するまで二ヶ月を要した。病名はOTC欠損症。聞きなれない病名であった。この病気は国の難病指定の病気で(成人を迎えるまでは小児慢性特定疾患と言う)詳細は省くが肝臓の病気である。幸い肝臓の数値が安定していた?ため、今年の一月中ばに退院となったが、この病気は完治する事は無い病気で、現状は投薬と食事制限で肝臓の数値を安定させるしか無い。肝臓を移植すれば食事制限は無くなるが移植をすればアレルギー反応が付いて回るため免疫抑制剤を一生涯投薬する必要がある。そして娘に子供が生まれた時1/2の確率で遺伝をする病気である。娘が80,000人に1人であるこの病気と分かった時、自分は意外なほど冷静だった。むしろそれどころではなかったと言うべきか。入院から退院まで基本的に妻が付き添うという形で娘に付きっきりであったため、後の2人の娘を私が見る事になったため、慣れない家事を受け持つ事になりてんやわんやであったためだ。そこで私が感じた事は、あたりまえと思っていた事、あたりまえと思ってしてもらっていた事、すべて有難い事なのだと頭が下がった。頭では分かっていてもいざ体験すると本当に頭が下がった。あたりまえだった家族との時間も、今や愛おしい時間と変わった。ただ単純に今自分が生きている要素には誰1人としても欠けては成立しない人々の存在があるということが頭と体で感じた。今の自分の立場に立って感謝をしろなどという、そんなちんけな思いでこのブログを書いているわけではない。難病の子供を持つ親に同情しろなどという安っぽい気持ちで書いていない。ただあたりまえという事は何一つない。有難い事しかこの私を包んでいないということ。今の自分を見た時「ありがとう」と思えない人だっている。大きくなった娘も、自分の病気を知った時絶望することだと思う。だがその病気になったことでしか味わえない事、それが例えば感謝かどうかは分からない。ただ自分の立場を受け入れた時その病気にかかったからこそ味わえた事、感じられた事がある。悲観に暮れることもあるだろうが、その味わいを感じて欲しいと思う。そしてできれば前を向いて歩んで欲しい。なんだか娘へ送る手紙の様な内容になったが、何かこのブログで感じていただけることがあれば何よりです。駄文長文失礼致しました。南無阿弥陀仏